郎女の心を有頂天に引き上げた頂板《つし》の面《おもて》の光輪にすら、明盲《あきじ》ひのやうに、注意は惹かれなくなつた。こゝに来て、疾《と》くに七日は過ぎ、十日・半月になつた。山も野も春のけしきが整うて居た。野茨の花のやうだつた小桜が散り過ぎて、其に次ぐ山桜が谷から峰かけて、断続しながら咲いてゐるのも見える。麦生は驚くばかり伸び、里人の野為事に出る姿が、終日動いてゐる。
都から来た人たちの中、何時までこの山陰に春を起き臥すことかと侘びる者が殖えて行つた。廬堂の近くに、板屋を掘り立てゝ、かう長びくと思はなかつたし、まだどれだけ続くかも知れぬ此生活に、家ある者は妻子に会ふことばかりを考へた。親に養はれる者は、家の父母の外にも、隠れた恋人を思ふ心が切々として来るのである。女たちは、かうした場合にも、平気に近い感情で居られる長い暮しの習はしに馴れて、何かと為事を考へてはして居る。女方の小屋は、男のとは別に、もつと廬に接して建てられて居た。
身狭乳母《むさのおも》の思ひやりから、男たちの多くは、唯さへ小人数な奈良の御館《みたち》の番に行けと言つて還され、長老《おとな》一人の外は、唯|雑用《ざふよう
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