う出来るものか。此は――もう、人間の手へは戻らないかも知れんぞ。
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末は独り言になつて居た。さうして、急に考へ込んで行つた。池へ落した水音は、未《ひつじ》がさがると、寒々と聞えて来る。
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早く、躑躅の照る時分になつてくれないかなあ。一年中で、この庭の一等よい時が待ちどほしい。
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紫微内相藤原仲麻呂の声は、若々しい欲望の外、何の響きをもまじへて居なかつた。


       十

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つた つた つた
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郎女は、夜が更けると、一向《ひたすら》、あの音の歩み寄つて来るのを待つやうになつた。
をとゝひよりは昨日、昨日よりは今日といふ風に、其跫音が間遠になつて行き、此頃はふつ[#「ふつ」に傍点]に音せぬやうになつた。その氷の山に対うて居るやうな骨の疼く戦慄の快感、其が失せて行くのを虞れるやうに、姫は夜毎、鶏のうたひ出すまでは殆ど祈る心で待ち続けて居た。
絶望のまゝ、幾晩も仰ぎ寝たきりで目は昼よりも寤《さ》めて居た。其間に起つた夜の間の現象には、一切心が留らなかつた。
現にあれほど、
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