いで緘黙行《しゞま》を守ることは、死ぬよりもつらい行《ぎやう》であつた。刀自らの油断を見ては、ぼつ/\話をしてゐる。其きれ/″\が、聞かうとも思はぬ郎女の耳にも、ぼつ/\と這入つて来《き》勝ちなのであつた。
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鶯の鳴く声は、あれで法華経《ほけきやう》々々々《/\》と言ふのぢやさうな。
ほゝ、どうして、え。
天竺のみ仏は、をなご[#「をなご」に傍点]は助からぬものぢやと説かれ/\して来たがえ、其果てに、女《をなご》でも救ふ道を開かれた。其を説いたのが、法華経ぢやと言ふげな。
――こんなこと、をなごの身で言ふと、さかしがりよと思はうけれど、でも世間ではさう言ふもの。――
ぢやで、法華経々々々と経の名を唱へるだけで、この世からあの世界への苦しみが助かるといの。
ほんにその、天竺のをなごの化《な》り変つたのがあの鳥で、み経の名を呼ばはるのかえ。
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郎女は、此を小耳に挿んで後、何時までも其印象が消えて行かなかつた。
その頃は、称讃浄土摂受経《しようさんじやうどせふじゆきやう》を千部写さうとの願を発《おこ》して居た時であつた。其がはかどらない。何時までも進まない。茫とした耳に、此|世話《よばなし》が紛れ入つて来たのである。
ふつと、こんな気がした。
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ほゝき鳥は、先の世で、法華経手写の願を立てながら、え果たさいで、死にでもした、いとしい女子《をみなご》がなつたのではなからうか。
今若し自身も、千部に満たずにしまふやうなことがあつたら、魂《たま》は何になるやら。やつぱり鳥にでも生れて、切《せつ》なく鳴き続けることであらう。
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つひしか、ものを考へた事もないあて人の郎女であつた。磨かれない智慧を抱いたまゝ、何も知らず思はずに過ぎて行つた幾百年、幾万の貴い女性《によしやう》の間に、蓮《はちす》の花がぽつちりと莟を擡《もた》げたやうに、物を考へることを知り初《そ》めたのである。
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をれよ。鶯よ。あな姦《かま》や。人に物思ひをつけくさる。
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荒々しい声と一しよに、立つて表戸と直角《かね》になつた草壁の蔀戸《しとみど》をつきあげたのは、当麻語部《たぎまかたり》の嫗《おむな》である。北側に当るらしい其外側は、※[#「片+總のつくり」、第3水準1−87−68]を圧するばかり、篠竹が繁つて居た。沢山の葉筋《はすぢ》が、日をすかして一時にきら/\と光つて見えた。
郎女は、暫らく幾本とも知れぬその光りの筋の、閃き過ぎたのを、※[#「目+匡」、第3水準1−88−81]の裏に見つめて居た。をとゝひの日の入り方、山の端に見た輝きを思はずには居られなかつたからである。
また一時《いつとき》、廬堂《いほりだう》を廻つて音するものもなかつた。日は段々|闌《た》けて、小昼《こびる》の温みが、ほの暗い郎女の居処にも、ほと/\と感じられて来た。
寺の奴《やつこ》が三四人先に立つて、僧綱が五六人、其に、所化たちの多くとり捲いた一群れが、廬へ来た。
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これが、古《ふる》山田寺だと申します。
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勿体ぶつた、しわがれ声の一人が言つた。
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そんな事は、どうでも――。まづ郎女さまを――。
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噛みつくやうにあせつて居る家長老《いへおとな》額田部子古《ぬかたべのこふる》のがなり声がした。
同時に、表戸は引き剥がされ、其に隣つた幾つかの竪薦《たちごも》をひきちぎる音がした。
づうと這入つて来た身狭《むさ》ノ乳母《おも》は、郎女の前に居たけを聳かして掩ひになつた。外光の直射を防ぐ為と、一つは、男たちの前殊には、庶民の目に貴人《あてびと》の姿を暴《さら》すまいとするのであらう。
伴に立つて来た家人の一人が、大きな木の又枝《またぶり》をへし折つて、之に旅用意の巻帛《まきぎぬ》を幾垂れか結び下げて持つて来た。其を牀《ゆか》につきさして、即座の竪帷《たつばり》―几帳―は調つた。乳母《おも》は、其前に座を占めて、何時までも動かなかつた。
七
怒りの滝のやうになつた額田部ノ子古は、奈良に還つて、公に訴へると言ひ出した。大和ノ国にも断つて、寺の奴原を逐ひ退けて貰ふとまで、いきまいた。紫微内相を頭《かしら》に、横佩家に深い筋合ひのある貴族たちの名をあげて、其方々からも、何分の御吟味を願はずには置かぬと、凄い顔をして住侶たちを脅かした。
郎女は貴族の姫で入らせられようが、寺の浄域を穢し、結界まで破られたからは、直にお還りになるやうには計はれない。寺の四至の境に在る所で、長期の物忌みして、贖《あがな》ひはして貰はねばならぬと、寺方も言ひ分を挽つこめなかつた。理分にも非分に
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