も、これまで南家の権勢でつき通して来た家長老《おとな》等にも、寺方の扱ひと言ふものゝ世間どほりにはいかぬ事が訣《わか》つて居た。乳母《おも》に相談かけても、一生さうした世事に与つた事のない此人は、そんな問題には、詮《かひ》ない唯の女性《によしやう》に過ぎなかつた。先刻《さつき》からまだ立ち去らずに居た当麻語部の嫗が、口を出した。
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其は、寺方に理分が御座りまする。お随ひなされねばならぬ
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と言ひ出した。其を聞くと、身狭の乳母は、激しく田舎語部の老女を叱つた。男たちに、畳を持ちあげ、柱に縋る古婆を掴み出させた。さうした威高さは、さすがに自ら備つてゐた。
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何事も、この身などの考へではきめられぬ。帥《そち》の殿《との》に承らうにと、国遠し。まづ姑らく、郎女様のお心による外はないものと思ひまする。
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其より外には、方もつかない。奈良の御館の人々と言つても、多くは此二人の意見を聞いてする人々である。よい思案を考へつきさうなものも居ない。太宰府へは直様使を立てることにして、とにもかくにも、当座は、姫の考へに任せようと言ふことになつた。
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郎女様。如何お考へ遊ばしまする。おして奈良へ還れぬでも御座りませぬ。尤、寺方でも侯人《さぶらひびと》や奴隷《やつこ》の人数を揃へて妨げませう。併し、御館《みたち》のお勢ひには、何程の事でも御座りませぬ。では御座りまするが、お前さまのお考を承らずには、何とも計らはれませぬ。御思案お洩し遊ばされ。
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謂はゞ難題である。あて人の娘御に、此返答の出来よう筈はない。乳母《おも》も、子古《こふる》も、凡は無駄な伺ひだと思つては居た。ところが、郎女の返事はこだまかへしの様に、躊躇《ためら》ふことなしにあつた。其上此ほど、はつきりとした答へはないと思はれた。其がすべての人の不満を圧倒した。
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姫の咎は、姫が贖《あがな》ふ。此寺、此二上山の下に居て、身の償《つぐな》ひ、心の償ひしたと姫が得心するまでは、還るものとは思《おも》やるな。
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郎女の声、詞を聞かぬ日はない身狭《むさ》の乳母《おも》ではあつた。だが、つひしか[#「つひしか」に傍点]此ほどに頭の髄まで沁み入るやうな、凜とした語を聞いたことのない乳母《おも》だつた。
寺方の言ひ分に譲るなど言ふ問題は、小さい事であつた。此爽やかな育ての君の判断力と、惑ひなき詞に感じてしまつた。たゞ、涙。かうまで賢《さか》しい魂を思ふと、頬に伝ふものを拭ふことも出来なかつた。子古にも、郎女の詞を伝達した。さうして、自分のまだ曾てなかつた感激を、力深くつけ添へて聞かした。
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ともあれ此上は、太宰府へ。
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かう言つた自分の語に気つけられたやうに、子古は思ひ出した。今日か明日、新羅問罪のうち合せの為、難波を離れて、筑前へ下る官使の一行があつたのである。此中に居る知り人に、今度の事の顛末の報告から、其決断を乞ふ次第を書き綴つて、托しようと思ひついた。
北へ廻つて、大阪越えから河内へ出て、難波まで、馬の叶ふ処は馬で行かうと決心した。
万法蔵院に唯一つ飼つて居た馬の借用を申し入れると、此は快く聴き入れてくれた。子古は、今日の日暮れまでには、難波まで行つて還つて来ると、威勢のよい語を、歯の隙いた口に叫びながら、郎女の竪帷《たつばり》の前に匍伏した。
子古の発つた後は、又のどかな春の日に戻つて、悠々《うら/\》と照り暮す山々を見せませうと、乳母《おも》が言ひ出した。木立、山陰から盗み見する者のないやうに、家人らを一町二町先まで見張りに出して、郎女を外に誘ひ出した。
暴風雨《あらし》の夜、添上、広瀬、葛城の野山をかち[#「かち」に傍点]あるきした姫ではない。乳母と今一人、若人の肩に手を置きながら、歩み出た。
日の光りは霞みもせず、陽炎も立たず、唯おどんで見えた。昨日眺めた野も、斜になつた日を受けて、物の影が細長く靡いて居た。青垣の様にとり捲く山々も、愈遠く裾を曳くやうに見える。
早い菫―げんげ―が、もうちらほら咲いてゐる。遠く見ると、その紫の色が一続きに見えて、薄い雲がおりて居るやうに思はれる。足もとに一本、おなじ花の咲いてゐるのを見つけた郎女は、膝を叢について、ぢつと眺め入つた。
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これはえ――
すみれと申すとのことで御座ります。
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かう言ふ風に、物を知らせるのが、あて人に仕へる人たちの為来りになつて居た。
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蓮《はちす》の花に似てゐながら、もつと細やかな、――絵にある仏の花を見るやうな――
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