声に出した。
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ほゝき ほゝきい
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何時も、悲しい時に泣きあげて居た、あの声ではなかつた。「をゝ此身は」と思つた時に、自分の顔に触れた袖は、袖ではないものであつた。枯れ生《ふ》の冬草山の山肌の色をした小さな翼であつた。思ひがけない声を、尚も出し続けようとする口を、押へようとすると、自身すらいとほしんで居た柔らかな唇は、どこかへ行つてしまつて、替りにさゝやかな管のやうな喙が来てついて居る――。悲しいのか、せつないのか、何の考へさへもつかなかつた。唯身悶へをした。すると、ふはりと[#「ふはりと」に傍点]からだは宙に浮き上つた。留めようと、袖をふれば振るほど、身は次第に、高く翔り昇つて行つた。月の照る空まで……。その後今に到るまで
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ほゝき ほゝきい ほゝほきい
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と鳴いてゐるのだと、幼い耳に染《し》みつけられた物語の出雲の嬢子が、そのまゝ自分であるやうな気がして来る。
郎女は、徐《しづ》かに両袖《もろそで》を胸のあたりに重ねて見た。家に居時よりは、萎《な》れ、皺《しわ》立つてゐるが、小鳥の羽《はね》とはなつて居なかつた。手をあげて唇にさはつて見ると、喙でもなかつた。やつぱり、ほつとり[#「ほつとり」に傍点]とした、感触を指の腹に覚えた。
ほゝき鳥《どり》―鶯―になつて居た方がよかつた。昔語の嬢子は、男を避けて山の楚原へ入り込んだ。さうして、飛ぶ鳥になつた。この身は、何とも知れぬ人の俤にあくがれ出て、鳥にもならずに、こゝにかうして居る。せめて蝶鳥《てふとり》にでもなれば、ひら/\と空に舞ひのぼつて、あの山の頂に、俤をつきとめに行けるものを――。
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ほゝき ほゝきい
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自身の咽喉から出た声だと思つた。だがやはり、廬の外で鳴くのである。
郎女の心に、動き初めた叡《さと》い光りは消えなかつた。今まで手習した書巻の何処やらに、どうやら、法喜[#「法喜」に傍点]と言ふ字のあつた気がする。法喜――飛ぶ鳥すらも、美しいみ仏の詞に感《かま》けて鳴くのではなからうか。さう思へば、この鶯も、
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ほゝき ほゝきい
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嬉しさうな高音《たかね》を段々張つて来る。
物語する刀自たちの話でなく、若人《わかうど》らの言ふことは、時たま世の中の瑞々《みづ/\》しい語草を伝へて来た。
奈良の家の女部屋は、裏方五つ間《ま》を通した広いものであつた。郎女の帳台の立《た》ち処《ど》を一番奥にして、四つの間に刀自若人凡三十人も居た。若人等は、この頃氏々の御館《みたち》ですることだと言つて、苑の池の蓮の茎を切つて来ては、藕絲《はすいと》を引く工夫に一心になつて居た。横佩家の池の面を埋めるほど、珠を捲いたり、解けたりした広い葉は、まばらになつて、水の反射が蔀を越して、女部屋まで来るばかりになつた。茎を折つては、繊維を引き出し、其片糸を幾筋も合せては、絲に縒る。
郎女は、女たちの凝つてゐる手芸を見て居る日もあつた。ぽつり/\切れてしまふ藕絲《はすいと》を、八合《やこ》・十二|合《こ》・二十合《はたこ》に縒つて、根気よく細い綱の様にする。其を績麻《うみを》の麻ごけ[#「麻ごけ」に傍点]に繋ぎためて行く。
この御館《みたち》でも、蚕《かふこ》は飼つて居た。現に刀自たちは、夏は殊にせはしく、不譏嫌《ふきげん》になつて居ることが多い。
刀自たちは、初めはそんな韓《から》の技人《てびと》のするやうな事はと、目もくれなかつた。だが時が立つと、段々興味を惹かれる様子が見えて来た。
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こりや、おもしろい。絹の絲と績《う》み麻《を》との間を行くやうな妙な絲の。此で、切れさへしなければなう。
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かうして績《つむ》ぎ蓄《た》めた藕絲は、皆一纏めにして寺々に納入しようと言ふのである。寺には其々《それ/″\》の技女《ぎぢよ》が居て、其絲で、唐土様《もろこしやう》と言ふよりも、天竺風な織物を織るのだと言ふ評判であつた。女たちは、唯|功徳《くどく》の為に絲を績《つむ》いでゐる。其でも、其が幾かせ[#「かせ」に傍点]、幾たま[#「たま」に傍点]と言ふ風に貯つて来ると、言ひ知れぬ愛著を覚えて居た。だが其が実際どんな織物になることやら、其処までは考へないで居た。
若人たちは、茎を折つては、巧みに糸を引き切らぬやうに、長く/\抽き出す。又其粘り気の少いさくい[#「さくい」に傍点]ものを、まるで絹糸を縒り合せるやうに手際よく絲にする間も、ちつとでも口やめる事なく、うき世語りなどをして居た。此は勿論、貴族の家庭では出来ない掟になつて居た。なつて居ても、物珍《ものめ》でする盛りの若人たちには、口を塞
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