とつては、肉縁はないが、曾祖母《ひおほば》に当る橘夫人の法華経、又其お腹に出でさせられた――筋から申せば大叔母にもお当りになる今の皇太后様の楽毅論。此二つが美々しい装ひで、棚を架《か》いた上に載せてあつた。
横佩右大臣と謂はれた頃から、父は此二部を、自分の魂のやうに大事にして居た。ちよつと出る旅にも、大きやかな箱に納めて、一人分の資人《とねり》に持たせて行つたものである。其魂の書物を、姫の守りに留めて而も誰にも話さなかつたのである。さすがに我強《がづよ》い刀自たちも、此見覚えのある美しい箱が出て来た時には、暫らく撲たれたやうに顔を見合せて居た。さうして後《のち》、後《あと》で恥しからうことも忘れて、皆声をあげて泣いたのである。
郎女は父の心入れを聞いた。姥たちの見る目には、併し予期したやうな昂奮は認められなかつた。唯一|途《づ》に素直に、心の底の美しさが匂ひ出たやうに、静かな美しい眼をして、人々の感激する様子を驚いたやうに見て居た。
其からは、此二つの女手《をみなで》の本《ほん》を一心に習ひとほした。一月も立たない中の事である。早く、此都に移つて居た飛鳥寺《あすかでら》から巻数《くわんず》が届けられた。其には、太宰府にある帥の殿の立願によつて、仏前に読誦した経文の名目が書き列ねてあつた。其に添へて一巻の縁起文が、此御館へ届けられたのである。
父藤原豊成朝臣、亡父贈太政大臣七年の忌みに当る日に志を発《おこ》して、書き綴つた「仏本伝来記」を、二年目の天平十八年に、元興寺《ぐわんこうじ》へ納めた。飛鳥以来、藤原氏とも関係の深かつた寺なり、本尊なのである。あらゆる念願と、報謝の心を籠めたものと言ふことは察せられる。其一巻が、どう言ふ事情か横佩家へ戻つて来たのである。
郎女の手に、此巻が渡つた時、姫は端近く膝行《ゐざ》り出て、元興寺の方を礼拝した。其後で、
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筑紫は、どちらに当るかえ
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と尋ねて、示す方角へ、活き/\した顔を向けた。其目からは、珠数の水精《すゐしやう》のやうな涙が落ちた。其からと言ふものは、来る日も/\此元興寺の縁起文を手写した。内典・外典其上に又、大日本《おほやまと》の人なる父の書いた文《もん》。
指から腕、腕から胸、胸から又心へ、泌み/\と深く、魂を育てる智慧の這入つて行くのを覚えたのである。
大日本|日高見《ひたかみ》の国、国々に伝はるありとある歌諺《うたことわざ》、又|其旧辞《そのもとつごと》、第一には、中臣の氏の神語り、藤原の家の古物語、多くの語り詞《ごと》を絶えては考へ継ぐ如く、語り進んでは途切れ勝ちに、呪々《のろ/\》しく、くね/\しく、独り語りする語部や、おもやまゝ[#「おもやまゝ」に傍点]たちの唱へる詞が、今更めて寂しく胸に蘇つて来る。
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をゝ、あれだけの習はしを覚えて此世に生きながらへて行かねばならぬ自身だつた。
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父に感謝し、次には尊い大叔母君、其から見ぬ世の曾祖母の尊に、何とお礼申してよいか量り知れないものが、心にたぐり上げて来た。
だが[#「だが」に傍点]まづ、父よりも誰よりも、御礼申すべきはみ仏である。この珍貴《ウヅ》の感覚《さとり》を授け給ふ、限り知られぬ愛《めぐ》みに充ちたよき人が、此世界の外に居られたのである。郎女は、塗香《づこう》をとり寄せて、まづ髪にふり灌ぎ、手に塗り、衣を薫るばかりに浄めた。[#地付き](つゞく)
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死者の書(終篇)
六
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ほゝき ほゝきい ほゝほきい。
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きのふよりも、澄んだよい日になつた。春にしては、驚くばかり濃い日光が、地上にかつきりと、木草の影を落して居た。ほか/\した日よりなのに、其を見てゐると、どこか薄ら寒く感じるほどである。時々に過ぎる雲の翳りもなく、晴れきつた空だ。高原を拓いて、間引《まび》いた疎らな木原《こはら》の上には、もう沢山の羽虫が出て、のぼつたり降《さが》つたりして居る。たつた一羽の鶯が、よほど前から一処を移らずに、鳴き続けてゐるのだ。
家の刀自たちが、物語る口癖を、さつきから思ひ出して居た。出雲[#(ノ)]宿禰の分れの家の嬢子《をとめ》が、多くの男の寄つて来るのを煩はしがつて、身をよけよけして、何時か山の林の中に分け入つた。さうして其処で、まどろんで居る中に、悠々《うら/\》と長い春の日が暮れてしまつた。嬢子は、家路と思ふ径をあちこち歩いて見た。脚は茨の棘にさゝれ、袖は木の楚《ずはえ》にひつぱられた。さうしてとう/\、里らしい家|群《むら》の見える小高い岡の上に上つた時は、裳《も》も著物も裂けちぎれて居た。空には夕月が光りを増して来てゐる。嬢子はさくり上げて来る感情を
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