ろで言つても、大伴にせよ。藤原にせよ。さう謂ふ妻どひ[#「妻どひ」に傍点]の式はなくて、数十代、宮廷をめぐつて仕へて来た村々のあるじの家筋だつた。
でも何時か、さうした氏々の間にも、妻迎への式には、
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八千矛の神のみことは、とほ/″\し高志《こし》の国に美《くは》し女《め》をありと聞かして、賢《さか》し女《め》をありと聞こして……
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から謡ひ起す神語歌《かみがたりうた》を、語部に歌はせる風が、次第にひろまつて来てゐた。

南家の郎女《いらつめ》にも、さう言ふ妻覓《つまま》ぎ人が――いや人群《ひとむれ》が、とりまいて居た。唯、あの形式だけ残された石城《しき》の為に、何だか屋敷へ入ることが、物忌み―たぶう[#「たぶう」に傍点]―を犯すやうな危殆《ひあひ》な心持ちで、誰も彼も、柵まで又門まで来ては、かいまみして帰るより外に、方法を見つけることが出来なかつた。
通《かよ》はせ文《ぶみ》をおこすだけがせめてもの手段で、其さへ無事に、姫の手に届いて披見せられるやら、自信を持つことが出来なかつた。事実、大抵、女部屋の老女《とじ》たちが引つたくつて、渡させなかつた。さうした文のとりつぎをする若人《わかうど》―若女房―を呼びつけて、荒けなく叱つて居る事が、度々見受けられた。
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其方《おもと》は、この姫様こそ、藤原の氏神にお仕へ遊ばす清らかな常処女《とこをとめ》と申すのだと言ふことを知らぬかえ。神の咎めを憚るがえゝ。宮からお召しになつてもふつ[#「ふつ」に傍点]によいおいらへを申しあげぬのも、そこがあるからとは考へつかぬげな。やくたい者め。とつと失せ居れ。そんな文とりついだ手を佐保川の一の瀬で浄めて来う。罰《ばち》知らずが……。
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こんな風にわなり[#「わなり」に傍点]つけられた者は、併し、二人や三人ではなかつた。横佩家の女部屋に住んだり、通うたりする若人は、一人残らず一度は経験したことだと謂つても、うそ[#「うそ」に傍点]ではないのだ。
だが郎女は、そんな事があらうとも気がつかなかつた。
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上つ方の姫御前が、才《さえ》をお習ひ遊ばすと言ふことが御座りませうか。それは、近来もつと下《しも》ざまのをなご[#「をなご」に傍点]の致すことゝ承ります。父君がどう仰らうとも、父御《てゝご》様のお語は御一代。お家の習はしは神さまの御|意趣《むね》と思ひつかはされませ。
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氏の掟の前には、氏《うぢ》の上《かみ》たる人の考へをすら、否みとほす事もある姥たちであつた。
其老女たちすら、郎女の天稟には舌を捲き出して居た。
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もう自身たちが教へることはない。
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かう思ひ出したのは、数年も前からである。内に居る身狭乳母《むさのおも》・桃花鳥野乳母《つきぬのまゝ》・波田坂上《はたのさかのへの》刀自、皆喜びと、不安とから出る歎息を洩し続けてゐる。時々伺ひに出る中臣|志斐嫗《のしひのおむな》・三上水凝刀自女《みかみのみづごりのとじめ》なども、来る毎に顔見合せてほつとした顔をする。どうしようと相談するやうな人たちではない。皆無言で、自分等の力の及ばぬ所まで来た姫の成長にあきれて、目を見はるばかりなのだ。
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才《さえ》を習ふなと言ふのなら、まだ聞きも知らぬこと教へて賜《たも》れ。
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素直な郎女の語も、姥たちにとつては、骨を刺しとほされるやうな痛さであつた。
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何を仰せられまする。以前から、何一つお教へなど申したことは御座りません。目下《めした》の者が、目上のお方さまに、お教へ申すと言ふやうな考へは、神様がお聞き届けになりません。教へる者は目上、教《をそ》はる者は目下と、此が神の代からの掟で御座りまする。
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志斐|嫗《おむな》の負け色を救ふ為に、身狭乳母《むさのおも》も口を挿む。
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唯、知つた事を申し上げるだけ。其を聞きながら、御心がお育ち遊ばす。さう思うて、姥たちは覚えただけの事は、姫御様のみ魂《たま》を揺《いぶ》る様にして、歌ひもし、語りもして参りました。教へたなど仰つては、私めらが罰を蒙らねばなりません。
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こんなことをくり返して居る間に、刀自たちにも、自分らの持つ才能に対する単純な自覚が起つて来た。此は一層、郎女の望むまゝに、才《さえ》を習はした方がよいのではないかと言ふ気が、段々して来たのである。
まことに其為には、ゆくりない事が幾重にも重つて起つた。姫の帳台の後から、遠くに居る父の心尽しだつたと見えて、二巻の女手《をんなで》の写経らしい物が出て来た。姫に
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