外構への一個処に、まだ石城《しき》が可なり広く、人丈にあまる程に築いてあるそばに、近寄つて行つた。
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荒れては居るが、こゝは横佩墻内《よこはきかきつ》だ。
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さう言つて、暫らく息を詰めるやうにして、石垣の荒い面を見入つて居た。
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さうに御座ります。此|石城《しき》からしてついた名の横佩墻内だと申して、せめて一ところだけはと、強ひてとり毀たないとか申します。何分、帥《そち》の殿《との》のお都入りまでは、何としても此儘で置くので御座りませう。さやうに、人が申します。はい。
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何時の間にか、三条七坊まで来てしまつたのである。
おれは、こんな処へ来ようと言ふ考へはなかつたのに……。だが「やつぱり、おれにまだ/\若い色好みの心が失せないで居るぞ」何だか自分で自分をなだめる様な、反省らしいものが起つて来た。
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其にしても、静か過ぎるぢやないか。
さやうで。で御座りますが、郎女のお行くへも知れ、乳母《おも》もそちらへ行つたとか、今も人が申しましたから、落ちついたので御座りませう。
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詮索ずきさうな顔をした若い方が、口を出す。
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いえ。第一、こんな場合は騒ぐといけません。騒ぎにつけこんで、悪い霊《たま》が、うよ/\とつめかけて来るもので御座ります。この御館《みたち》も、古いおところだけに、心得のある長老《おとな》の、一人や、二人は筑紫へ下らずに残つて居るので御座りませう。
さうか。では戻らう。
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       五

をとめの閨戸《ねやど》をおとなふ風は、何も珍しげのない国中の為来《しきた》りであつた。だが其にも、曾てはさうした風の一切行はれて居なかつたことを主張する村々があつた。何時のほどにかさうした村が、古い為来りを他村の、別々に守られて来た風習とふり替へることになつたのである。
かき昇る段になれば、何の雑作《ざふさ》もない石城《しき》だけれど、あれを大昔からとり廻して居た村と、さうでない村とがあつた。こんな風にしかつめらしい説明をする宿老《とね》たちが、どうかすると居る。多分やはり、語部などの昔語りから来た話なのであらう。踏み越えても這入れさうに見える石畳だけれど、大昔の約束で、目に見えぬ鬼神《もの》から人間に到るまで、あれが形だけでもある限り、入りこまないことにした。こんな誓ひが人と鬼《もの》との間にあつた後、村々の人は、石城《しき》の中に晏如として眠ることが出来る様になつた。さうでない村々では、何者でも垣を躍り越えて這入つて来る。其は、別の何かの為方《しかた》で防ぐ外はなかつた。だから、唯の夜だけでも、村なかの男は何の憚りなく、垣を踏み凌いで処女の閨の戸をほと/\と叩く。石城《しき》を囲《かこ》うた村には、そんなことはもうなかつた。だから美《くは》し女《め》の居る家へは、奴隷《やつこ》の様にして這入りこんだ人もある。娘の父にこき使はれて、三年五年その内に、処女に会はうとした神様の話すらもあるくらゐだ。石城《しき》を掘り崩すのは、何処からでも鬼神《もの》に入りこんで来いと呼びかけることに当る。京の年よりにもあつたし、田舎の村々では、之を言ひ立てにちつとでも、石城を残して置かうと争うた人々が多かつた。
さう言ふ村々では、実例として恐しい証拠を挙げた。先年―天平六年―厳命が降つて、何事も命令のはか/″\しく行はれないのは、朝臣《てうしん》が先つて行はないからである。汝等、天下百姓より進んで、石城を毀つて、新京の時世装に叶うた家作りに改めよと仰せられた。藤氏四流の如き、今に旧態を易《い》へざるは、最其位に在るを顧ざるものだとお咎めがあつた。此時一度、凡石城はとり毀たれたのである。ところが其と時を同じくして、疱瘡《もがさ》がはやり出した。越えて翌年、益盛んになつて南家・北家・京家すべてばた/″\と主人からまづ此|時疫《じえき》に亡くなつた。家に防ぐ筈の石城が失せたからである。其でまたぼつ/\とり壊した家も、旧《もと》に戻したりしたことであつた。
こんな畏しい事も、あつて過ぎた夢だ。がまだ、まざ/″\と、人の心には焼きついて離れない。
其は其として、昔から家の娘を守つた村々は、段々えたい[#「えたい」に傍点]の知れぬ村の風に感染《かま》けて、忍び夫《づま》の手に任せ傍題《はうだい》にしようとしてゐる。此は、さうした求婚《つまどひ》の風を伝へなかつた氏々の間では、忍び難いことであつた。其でも男たちは、のどかな風俗を喜んで何とも思はなくなつた。が、家庭の中では、母・妻・乳母《おも》たちが、今にいきり立つて、さうした風儀になつて行く世間を呪ひやめなかつた。
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