い気持ちを代作して居てくれたやうな気がした。
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さうだ。「おもしろき野《ぬ》をば勿《な》焼きそ……」だ。此でよいのだ。
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けげんな顔をふり仰《あふむ》けてゐる伴人《ともびと》らに、柔和な笑顔を向けた。
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さうは思はぬか。立ち朽りになつた家の間に、どし/\新しい屋敷が建つて行く。都は何時までも、家は建て詰まぬが其でもどちらかと謂へば、減るよりも殖えて行つてる。此辺は以前今頃は、蛙の沢山に鳴く田の原が続いてたもんだ。
仰るとほりで御座ります。春は蛙、夏は稲虫、秋は蝗まろ。此辺はとても歩けたところでは御座りませんでした。
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今一人が言ふ。
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建つ家も/\、この立派さはどうで御座りませう。其に、どれも此も、此頃急にはやり出した築土垣《つきひぢがき》を築《きづ》きまはしまして。何となく、以前とはすつかり変つた処に参つた気が致します。
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馬上の主人も、今まで其ばかり考へて居た所であつた。だが彼の心は、瞬間明るくなつて、去年六月、三形王のお屋敷での宴《うたげ》に誦《くちずさ》んだ即興が、その時よりも、今はつきりと内容を持つて、心に浮んで来た。
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うつり行く時見る毎に、心疼く 昔の人し思ほゆるかも
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目をあげると、東の方春日の杜《もり》は家陰になつて、こゝからは見えないが、御蓋《みかさ》山・高円《たかまど》山一帯、頂きが晴れて、すばらしい春日和になつて居た。
あきらめがさせるのどけさ[#「のどけさ」に傍点]なのだと、すぐ気がついた。でも、彼の心のふさぎのむし[#「ふさぎのむし」に傍点]は痕を潜めて、唯、まるで今歩いてゐるのが、大日本《おほやまと》平城《へいせい》京でなく、大唐《だいとう》の長安の大道でゞもある様な錯覚が押へきれない。此馬がもつと毛並みのよい純白の馬で、跨つて居る自身も亦、若々しい二十代の貴公子の気がして来る。神々から引きついで来た重苦しい家の歴史だの、夥しい数の氏人などから、すつかり截り離されて、自由な身空にかけつて居る自分だと言ふ、豊かな心持ちが、暫らくは払つても/\消えて行かなかつた。
おれは若くもなし、第一、海東の大日本人《おほやまとびと》である。おれには憂鬱な家職がひし/\と肩のつまるほどかゝつて居るのだ。こんなことを考へて見ると、寂しくてはかない[#「はかない」に傍点]気もするが、すぐに其は、自身と関係のないことのやうに、心は賑はしく和いで来て為方がなかつた。
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をい。おまへたち。大伴の家も、築土垣を引き廻さうかな。
とんでもない仰せで御座ります。
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二人の声がおなじ感情で迸り出た。
年の増した方の一人が、切実な胸を告白するやうに言つた。
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私どもは、御譜第では御座りません。でも、大伴と言ふお名は、御門・御垣と関係深い称へだと承つて居ります。大伴家から、門垣を今様にする事になつて御覧なさりませ。御一族の末々まで、あなた様をお呪ひ申し上げることでせう。其どころでは御座りません。第一、ほかの氏々が、大伴家よりも、ぐんと歴史の新しい――人の世になつて初まつた家々の氏人までが、御一族を蔑《ないがしろ》に致すことになりませう。
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こんな事を言はして置くと、折角澄みかゝつた心も、又曇つて来さうな気がする。家持は忙てゝ、資人の口を緘《と》めた。
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うるさいぞ。誰に言ふ語だと思うて、言うて居るのだ。よさないか。雑談《じやうだん》だ。雑談を真に受ける奴があるものか。
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馬はやつぱり、しつとしつと、歩いて居た。築土垣、築土垣又、築土垣。こんなに、何時の間に、家構へが替つて居たのだらう。家持は、なんだか、晩《おそ》かれ早かれ、ありさうな気のする次の都――どうやらかう、もつとおつぴらいた平野の中の新京城に来てゐるのでないかと言ふ気も、ふとしたさうなのを、危く喰ひとめた。
築土垣、築土垣。もう彼の心は動かなくなつた。唯、よいとする気持ちと、いけないと思はうとする意思との間に、気分だけがあちらへ寄り、こちらへ依りしてゐるだけであつた。
何時の間にか、平群《へぐり》の丘や、色々な塔を持つた京西《きやうにし》の寺々の見渡される町尻へ来て居ることに気がついた。
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これは/\。まだ少しは残つてゐるぞ。
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珍しい発見をしたやうに、彼は馬から身を飜《かへ》しておりた。二人の資人はすぐ馳け寄つて手綱を控へた。
家持は、門と門との間に、細かい柵をし囲らし、目隠しに枳殻《からたちばな》の藪を作つた家の
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