つて返し歌を作つて遣はした。又折り返して、男からの懸想文が来てゐる。
その壻候補《むこがね》の父なる人は、五十になつても、若かつた頃の容色を頼む心が失せないでゐて、兄の家娘に執心を持つて居るが、如何に何でも、あの姫だけにはとりつげないで居る。此は、横佩家へも出入し、大伴家へも初中終来る古刀自《ふるとじ》の人のわるい内証話であつた。其を聞いて後、家持自身も、何だか好奇心に似たものが、どうかすると頭を擡《もちや》げて来てゐる。仲麻呂は今年、五十を出てゐる。其から見れば、十も若いおれなどは、まう一度、思ひ出に此匂ひやかな貌花を、垣内《かきつ》の苑に移せない限りはない。こんな当時の男が皆持つた誇りに、心をはなやがして居た。
だが併し、あの郎女は、藤原南家で一番神さびたたち[#「たち」に傍点]を持つて生まれたと謂はれた娘御である。今枚岡の御神に仕へて居る斎《いつ》き姫《ひめ》の罷める時が来ると、あの嬢子《をとめ》が替つて立つ筈だ。其で、貴い所からのお召しにも応じかねて居るのだ。……結局誰も彼も、あきらめねばならぬ時が来るのだ。神の物は神の物だ。横佩家の娘御は、神の手に落ちつくのだらう。
ほのかな感傷が、家持の心を浄めて過ぎた。おれは、どうもあきらめがよ過ぎる。十代の若さで、母は死に、父は疾んで居る太宰府へ降つて、早くから、海の彼方《あなた》の作り物語や、唐詩《もろこしうた》のをかしさを知り初めたのが、病みつきになつたのだ。死んだ父も、さうした物は或は、おれより嗜きだつたかも知れないほどだつたが、もつと物に執著《しふちやく》が深かつた。現に大伴の家の行くすゑの事なども、父はあれまで心を悩まして居た。おれも考へればたまらなくなつて来る。其で、氏人を集めて喩したり、歌を作つて呼号したりする。だがさうした後の気持ちの爽やかさはどうしたことだ。洗ひ去られた様に、心がすつとしてしまふのだつた。まるで、初めから家の事など考へて居なかつた、とおなじすが/\しい心になつてしまふのだ。
あきらめと言ふ事を知らなかつた人ばかりではないか。……昔物語に語られる神でも、人でも、傑れたと伝へられるだけの方々は……。それに、おれはどうしてかうだ。
家持の心は併し、こんなに悔恨と同じ心持ちに沈んで居るに繋らず、段々気にかゝるものが薄らぎ出して来てゐる。
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ほう、これは京極《きやうはて》まで来た。
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朱雀大路も、こゝまで来ると、縦横に通る地割りの太い路筋ばかりが、白々として居て、どの区画にも/\、家は建つて居ない。去年の草の立ち枯れたのと、今年生えて稍茎を張り初めたのとがまじりあつて、屋敷地から喰み出し道の上にまで延びて居る。
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こんな家が……。
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驚いたことは、そんな雑草原の中に、唯一つ大きな構への家が、建ちかゝつて居る。遅い朝を、もう余程、今日の為事に這入つたらしい木の道[#「木の道」に傍点]の者たちが、骨組みばかりの家の中で立ちはたらいて居るのが見える。
家の建たぬ前に、既に屋敷廻りの地形《ちぎやう》が出来て、見た目にもさつぱりと、垣をとり廻して居る。土を積んで、石に代へた垣、此頃言ひ出した築土垣《つきひぢがき》といふのが此だなと思つて、ぢつと目をつけて居た。見る/\、さうした新しい好尚《このみ》のおもしろさが、家持の心を奪つた。
築土垣《つきひぢがき》の処々に、きりあけた口があつて、其に門が出来て居た。さうして、其処から、頻りに人が繋つては出て来て、石を曳く、木を持つ、土を搬び入れる。重苦しい石城《しき》。懐しい昔構へ。今も家持のなくしともなく考へてゐる屋敷廻りの石垣が、思うてもたまらぬ重圧となつて、彼の胸にもたれかゝつて来るのを感じた。
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おれには、だがこの築土垣を択《と》ることが出来ない。
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家持の乗馬《め》は再憂鬱に閉された主人を背に、引き返して、五条まで上《あが》つて来た。此辺から右京の方へ折れこんで、坊角《まちかど》を廻りくねりして行く様子は、此主人に馴れた資人《とねり》たちにも、胸の測られぬ気を起させた。二人は時々顔を見合せ、目くはせをし乍ら、尚了解が出来ぬと言ふやうな表情を交《かは》し乍ら、馬の後を走つて行く。
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こんなにも、変つて居たのかねえ。
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ある坊角《まちかど》に来た時、馬をぴたと止めて、独り言のやうに言つた。
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……旧《ふる》草に、新《にひ》草まじり、生《お》ひば、生ふるかに――だな。
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近頃見出した歌※[#「にんべん+舞」、第4水準2−3−4]所《かぶしよ》の古記録「東歌」の中に見た一首がふと、此時、彼の言ひた
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