のが、次第に拡まつて、家持の耳までも聞えて来た。なるほど、憤怒《ふんぬ》の相もすさまじいにはすさまじいが、あれがどうも、当今大和一だと言はれる男たちの顔そのまゝだと言ふのである。
多聞天は、紫微内相藤原|中卿《ちうけい》だ。あの柔和な、五十を越してもまだ三十代の美しさを失はないあの方が、近頃おこりつぽくなつて、よく下官や、仕《つか》へ人《びと》を叱るやうになつた。ある円満《うま》し人《びと》が、どうしてこんな顔つきになるだらうと思はれる表情をすることがある。其面もちそつくりだ、と尤らしい言ひ分なのである。
さう言へばあの方が壮盛《わかざか》りに、矛使《ほこゆ》けを嗜《この》んで、今にも事あれかしと謂つた顔で、立派な甲《よろひ》をつけて、のつし/\と長い物を杖《つ》いて歩いたお姿が、ちらつくやうだなどゝ、相槌をうつ者も出て来た。
其では、広目天の方はと言ふと、
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さあ 其がの
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と誰に言はせても、言ひ渋るやうな、ちよつと困つた顔をして見せる。
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実は、ほんの人の噂だがの。噂だから、保証は出来ないがの。義淵僧正の弟子の道鏡法師に似てるがやと言ふぞな。……けど、他人《ひと》に言はせると、――あれはもう十七年にもなるかいや――筑紫で伐たれなさつた前太宰少弐《ぜんだざいのせうに》―藤原広嗣―の殿《との》に生写《しやううつ》しぢやとも言ふがいよ。
わしにも、どちらとも言へんがの。どうでも、見たことあるお人に似て居さつせることは似て居るげなが……。
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何しろ此二つの天部《てんぶ》が、互に敵視するやうな目つきで睨みあつて居る。噂を気にした住侶たちが、色々に置き替へて見たが、どの隅からでも相手の姿を眦を裂いて見つめて居る。とう/\あきらめて、自然にとり沙汰の消えるのを待つより為方がないと思ふやうになつた。
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若しや、天下に大乱でも起らなければえゝが。
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こんな囁きは、何時までも続きさうに、時と共に倦まずに語られた。
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前《ぜん》少弐卿でなくて、弓削新発意《ゆげしんぼち》の方であつてくれゝば、いつそ安心だがなあ。あれなら、事を起しさうな房主でもなし。
起したくても起せる身分でもないぢやて……。
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言ひたい傍題《はうだい》な事を言つて居る人々も、たつた此一つの話題を持ちあぐね初めた頃、噂の中の紫微内相藤原仲麻呂の姪の横佩家の郎女が、神隠しに遭つたと言ふ、人の口の端に施風《つじかぜ》を起すやうな事件が湧き上つたのである。
四 ―その三―
兵部大輔《ひやうぶたいふ》大伴ノ家持は、偶然この噂を、極めて早く耳にした。ちようど春分《しゆんぶん》から二日目の朝、朱雀大路を南へ、馬をやつて居た。二人ばかりの資人《とねり》が、徒歩《かち》で驚くばかり足早について行く。此は晋唐の新しい文学の影響を受け過ぎるほど享け入れた文人かたぎの彼には、数年来珍しくもなくなつた癖である。かうして何処まで行くのだらう。唯、朱雀の並み木の柳の花がほけて、霞のやうに飛んで居た。向うには、低い山と狭い野が、のどかに陽炎《かげろ》ふばかりであつた。
資人の一人が、とつとと[#「とつとと」に傍点]追ひついて来たと思ふと、主人の鞍に胸をおしつける様にして、新しい耳を聞かした。今行きすがうた知り人の口から聞いたばかりの噂である。
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それで、何かの……。娘御の行くへは知れたと言ふのか。
はい……。いゝえ。何分、その男がとり急いで居りまして。
間抜けめ。話はもつと上手に聴くものだ。
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柔らかく叱つた。そこへ、今《も》一人の伴《とも》が追ひついて来た。息をきらしてゐる。
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ふん。汝《わけ》は聞き出したね。南家《なんけ》の嬢子《をとめ》はどうなつた。
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出鼻を油かけられた資人《とねり》は、表情に隠さず心の中を表した此頃の人の自由な咄し方で、まともに鼻を蠢して語つた。
当麻までをとゝひの夜の中に行つて居たこと。寺からは昨日午後、横佩家へ知らせが届いたこと。其外には、何も聞きこむ間がなかつた。
家持の聯想は、環のやうに繋つて、暫らくは馬の上から見る、街路も、人通りも、唯、物として通り過ぎるだけであつた。
南家で持つて居た藤原の氏《うぢ》の上《かみ》職が、兄の家から弟仲麻呂の方へ移らうとしてゐる。来年か、再来年の枚岡《ひらをか》祭りに、参向する氏人の長者は、自然紫微内相のほか人がなくなつて居る。紫微内相からは、嫡子久須麻呂の為、自分の家の第一嬢子をくれとせがまれて居て、先日も久須麻呂の名の歌が届き、自分の方でも、娘に代
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