たことも、かうつと[#「かうつと」に傍点]、姉御が墓の戸で哭き喚《わめ》いて、歌をうたひあげられたつけ。「厳石《いそ》の上《うへ》に生ふる馬酔木《あしび》を」と言はれたので、春が闌《た》けて、夏に入りかけた頃だと知つた。おれの骸《むくろ》は、もう半分融け出した頃だつた。それから、「たをらめど……見すべき君がありと言はなくに」さう言はれたので、はつきりもう死んだ人間になつたと感じたのだ。……其で、手で、今してる様にさはつて見たら、其時驚いたことに、おれのからだは著こんだ著物の下で、ぺしやんこになつて居るのだつた。
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臂《かひな》が動き出した。片手は、まつくらな空《くう》をさした。さうして、今一方は、そのまゝ、岩|牀《どこ》の上を掻き捜つて居る。
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うつそみの人なる我や。明日よりは、二上山を愛兄弟《いろせ》と思はむ。
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誄歌《なきうた》が聞えて来たのだ。姉御があきらめないで、も一つつぎ足して歌つてくれたのだ。其で知つたのは、おれの墓と言ふものが、二上山にあると言ふことだ。
よい姉御だつた。併し、其歌の後で、又おれは何もわからなくなつてしまつた。
其から、どれほどたつたのかなあ。どうもよつぽど、長い間だつた気がする。伊勢の巫女様、尊い姉御が来てくれたのは、居寝りの夢を醒された感じだつた。其に比べると、今度は、深い睡りの後《あと》見たいな気がする。
手にとるやうだ。目に見るやうだ。心を鎮めて……鎮めて。でないと、この考へが復散らかつて行つてしまふ。おれの昔があり/\と訣つて来た。だが待てよ。……さうして一体、こゝに居るおれはだれなのだ。だれの子なのだ。だれの夫《つま》なのだ。其をおれは忘れてしまつてゐるのだ。
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両の臂は、腰の廻り、胸の上、股から膝をまさぐつて[#「まさぐつて」に傍点]居る。さうしてまるで、生物のやうな深い溜め息が洩れて出た。
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大変だ。おのれの著物は、もうすつかり朽つて居る。おのれのはかま[#「はかま」に傍点]は埃になつて、飛んで行つた。どうしろと言ふのだ。此おれは、著物もなしに寝て居たのだ。
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筋ばしるやうに、彼の人のからだに、血の馳け廻るに似たものが過ぎた。肱を支へて、上半身が、闇の中に起き上つた。
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をゝ寒い。おれをどうしろと仰るのだ。尊いおつかさま。おれが悪かつたと言ふのなら、あやまります。著物を下さい。著物を。此では地べたに凍りついてしまひます。
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彼の人には、声であつた。だが、声でないものとして、消えてしまつた。声でない語が、何時までも続く。
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くれろ。おつかさま。著物がなくなつた。すつ裸で出て来た赤ん坊になりたいぞ。赤ん坊だ。おれは。こんなに寝床の上を這ひずり廻つてゐるのが、誰にも訳らないのか。こんなに手足をばた/\やつてゐるおれの見える奴が居んのか。
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その唸き声のとほり、彼の人の骸は、まるで駄々をこねる赤子のやうに、足もあがゞに身あがきをば、くり返して居る。明りのさゝなかつた墓穴の中が、時を経て、薄い氷の膜ほど物のたゝずまひを幾分朧ろに見わけることが出来るやうになつて来た。其はどこからか、月光とも思へる薄あかりがさし入つて来たのである。
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どうしよう。どうしよう。おれは。――大刀までこんなに、錆びてしまつた……。
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二
月は、依然として照つて居た。山が高いので、光りのあたるものが少かつた。山を照らし、谷を輝かして、剰る光りは、又空に跳ね返つて、残る隅々までも、鮮やかにうつし出した。
足もとには、沢山の峰があつた。黒ずんで見える峰々が入りくみ、絡みあつて、深々と畝つてゐる。其が見えたり隠れたりするのは、この夜更けになつて、俄かに出て来た霞の所為《せゐ》だ。其が又、此冴え/\とした月夜を、ほつとり[#「ほつとり」に傍点]と暖かく感じさせて居る。
端山《はやま》の広い群《むらが》りの先《さき》は、白い砂の光る河原だ。目の下遠く続いた輝く大佩帯《おほおび》は、石川である。その南北に渉つてゐる長い光りの筋が、北の端で急に拡つて見えるのは、凡河内《おほしかふち》の邑のあたりであらう。其へ、山国を出たばかりの堅塩《かたしほ》川―大和川―が行きあつて居るのだ。そこから、乾《いぬゐ》の方へ、光りを照り返す平面が、幾つも列つて見えるのは、日下江《くさかえ》・難波江《なにはえ》などの水面であらう。
寂かな夜である。やがて鶏鳴近い山の姿は、一様に露に濡れたやうに、しつとりとして静まつて居る。谷にちら/\する雪のやうな輝きは、目の下の
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