井を意識した。次いで、氷になつた岩|牀《どこ》。両脇に垂れさがる荒石の壁。した/\と岩伝《いはづた》ふ雫の音。
時が経た――。眠りの深さが、はじめて頭に浮んで来る。長い眠りであつた。けれども又、浅い夢ばかりを見続けて居た気がする。うつら/\思つてゐた考へが、現実に繋つて、あり/\と目に沁みついてゐる。
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あゝ耳面刀自《みゝものとじ》。
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甦《よみがえ》つた語が、彼の人の思ひを、更に弾力あるものに響き返した。
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耳面刀自。おれはまだお前を。……思うてゐる。おれは、きのふこゝに来たのではない。それも、をとゝひや、其さきの日に、こゝに眠りこけたのでは決してないのだ。おれは、もつと/\長く寝て居た。でも、おれはまだ、お前を思ひ続けて居たぞ。耳面刀自《みゝものとぢ》。こゝに来る前から……こゝに寝ても、……其から、覚めた今まで、一続きに、一つ事を考へつめて居るのだ。
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古い習慣から――祖先以来さうしたやうに、此世に在る間さう暮して居た。――である。彼の人は、のくつと[#「のくつと」に傍点]起き直らうとした。だが、筋々が断《き》れるほどの痛みを感じた。骨の筋々が、挫けるやうな疼きを覚えた。――さうして尚、ぢつとぢつとして居る。射干玉《ぬばたま》の闇。黒玉の大きな石壁に、刻み込まれた白々としたからだの様に、寂しく、だが、すんなりと手を伸べたまゝで居た。
耳面刀自の記憶。たゞ其だけの深い凝結した記憶。其が次第に蔓《ひろが》つて、過ぎた日の様々な姿を、聯想の紐に貫いて行く。さうして明るい意思が、彼の人の死枯《しにが》れたからだに、再び立ち直つて来た。
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耳面刀自。おれが見たのは、唯一目――唯一度だ。だが、おまへのことを聞きわたつた年月は久しかつた。おれによつて来い。耳面刀自。
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記憶の裏から、反省に似たものが浮び出て来た。
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おれは、このおれは、何処に居るのだ。……それから、こゝは何処なのだ。
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其よりも第一、此おれは誰なのだ。其をすつかりおれは忘れた。
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おれは覚えて居る。あの時だ。鴨が声《ね》を聞いたのだつけ。さうだ。訳語田《をさだ》の家を引き出されて、磐余《いはれ》の池に上つた。堤の上には、遠捲きに人が一ぱい、あの萱原、そこの矮叢《ぼさ》から首がつき出て居た。皆が大きな喚《おら》び声を、挙げて居たつけな。あの声は残らず、おれをいとしがつて居る、半泣きの喚《わめ》き声だつた。
其でもおれの心は、澄みきつて居た。まるで、池の水だつた。あれは、秋だつたものな。はつきり聞いたのが、水の上に浮いてゐる鴨鳥の声だつた。今思ふと、待てよ。其は何だか、一目惚れの女の哭き声だつた気がする。――をゝ、あれが耳面刀自だ。其瞬間、肉体と一つに、おれの心は急に締めあげられるやうな刹那を通つた気がした。俄かに楽な広い世間に出たやうな感じだつた。さうして、ほんの暫らく、ふつと[#「ふつと」に傍点]さう考へたきりで、空も見ない。土も見ない。花や木の色も消え去つた――おれ自分すら、おれだか、はつきり訣らぬものになつてしまつたのだ。
あゝ其時から、おれ自身、このおれを忘れてしまつたのだ。
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足の踝《くるぶし》が、膝の膕《ひつかゞみ》が、腰のつがひ[#「つがひ」に傍点]が、頸のつけ根が、顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]が、盆の窪が――と、段々上つて来るひよめきの為に蠢いた。自然に、ほんの偶然強ばつたまゝの膝が、折り屈められた。だが、依然として――常闇。
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をゝさうだ。伊勢の国に居られる貴い巫女《みこ》――おれの姉|御《ご》。あの人がおれを呼び活けに来てゐる。
姉御。こゝだ。でも、おまへさまは、尊い御《おん》神に仕へてゐる人だ。おれのからだに触《さは》つてはならない。そこに居るんだ。ぢつとそこに蹈み止《とま》つて居るものだ。――あゝおれは死んでゐる。
死んだ。殺されたのだ。忘れて居た。さうだ。此は、おれの墓だ。
いけない。そこを開けては。塚の通ひ路の扉をこじるのはおよし。……よせ。よさないか。姉の馬鹿。
なあんだ。誰も来ては居なかつたのだな。あゝよかつた。おれのからだが、天日《てんぴ》に暴《さら》されて、見る/\腐るとこだつた。だが、をかしいぞ。あれは昔だ。あのこじあける音がしたのも、昔だ。姉御の声で、塚道の扉を叩きながら、言つて居たのも今《いんま》の事――ではなかつたのだ。昔だ。おれのこゝへ来て間もないことだつた。
おれは其時知つた。十月だつたから鴨が鳴いて居たのだ。其鴨のやうに首を捻ぢちぎられて、何もわからぬものになつ
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