と申します。藤原四流の中で、一番美しい郎女が、今におき耳面刀自と、其|幽界《かくりよ》の目には見えるらしいので御座りまする。女盛りをまだ婿どりなさらぬさうなあなた様が、其力におびかれてお出でになるのでなうて何で御座りませう。
当麻路に墓を造りました当時、石を搬ぶ若い衆にのり移つた霊が、あの長歌を謳うたのだと伝へて居ります。はい。
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当麻語部媼《たぎまのかたりのおむな》は、南家の郎女が脅える様を想像して咄して居たのかも知れない。唯さへこの深夜、場所も場所である。如何に止めどなくなるのが、「ひとり語り」の癖とは言へ、語部の古婆《ふるばゝ》の心は、自身も思はぬ意地くね悪さを蔵してゐるものである。此が、神さびた職を寂しく守つて居る者の優越感にもなるのであつた。
大貴族の郎女は、人の語を疑ふことは教へられて居なかつた。そこへ、信じなければならぬものとせられて居た語部の物語である。詞の端々までも、真実なものと感じて聴いて居た。
さう言ふ昔びとの宿執《しゆくしう》が、かうして自分を導いて来たことは、まことに違ひないであらう。其うしても、つひしか[#「つひしか」に傍点]見ぬお姿――尊い御仏と申すやうな相好が、其お方とは思はれぬ。
春秋の彼岸中日、入り方の光り輝く雲の上にまざ/″\と見たお姿。此|日本《やまと》の国の人とは思はれぬ。だが、自分のまだ知らぬこの国の男子《をのこご》たちには、あゝ言ふ方もあるのか知ら。金色《こんじき》の冠、金色の髪の豊に垂れかゝる片肌は、白ゝと袒《ぬ》いで美しい肩。ふくよかなお顔は、鼻隆く、眉秀で、夢見るやうなまみ[#「まみ」に傍点]を伏せて、右手は乳の辺に挙げ、左は膝のあたりに垂れて……あゝ雲の上に朱の唇、匂ひやかにほゝ笑まれたと見た……あの俤。
日のみ子さまの御側に居るお人の中には、あの様な人もおいでなさるものだらうか。我が家の父や、兄人《せうと》たちも、世間の男たちとは、とりわけてお美しいと女たちは噂するが、其とても似もつかぬ……。
尊い女性は、下賤な人と、口をきかぬのが、当時の掟である。何よりも、其語は、下ざまには通じないものと考へられてゐる。其でも此古物語をする姥には、貴族の語もわかるであらう。郎女は、恥ぢ乍ら問ひかけた。
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そこの人。ものを聞きませう。此身の語が、聞とれたら、答へしておくれ。
その飛鳥の宮の 日のみ子さまに仕へたと言ふお人は、昔の罪びとらしいに、其が亦どうした訳で、姫の前に立ち現れて神々《かう/″\》しく見えるのだらう。
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此だけの語が、言ひ淀み/\して言はれてゐる間に、姥は郎女の内に動く心を、凡は気どつて居た。暗いみ灯《あかし》の光りの代りに、其頃にはもう東白みの明りが、部屋の内の物の形を朧ろげに顕し出して居た。
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其は申すまでもないこと。お聞きわけられませ。神代の昔、天若日子《あめわかひこ》と申したは、天の神々に矢を引いた罪ある者に御座ります、其すら、其|後《ご》、人の世になつても、氏貴い家々の娘|御《ご》の閨《ねや》の戸までも忍びよると申しまする。世に言ふ「天若《あめわか》みこ」と言ふのが、其で御座ります。天若みこ、物語にも、うき世語《よがた》りにも申します。お聞き及びかえ。
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姥は暫らく口を閉ぢた。さうして言ひ出した声は、年に似ずはなやいだものであつた。
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「もゝつたふ」の歌を残しなされた飛鳥の宮の執心《しうしん》びとも、つまりはやはり、天若みこの一人で御座りまする。
お心つけなされませ。物語も早これまで。
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其まゝ石のやうに、老女はぢつとして居る。冷えた夜も幾らか朝影《あさかげ》を感じる頃になると、温みがさして来た。
万蔵法院は、村からは遠く山によつて立つて居た。暁早い鶏の声も聞えない。もう塒を離れるらしい朝鳥が、近い端山《はやま》の梢[#「梢」は底本では「稍」]で、羽振《はぶき》の音を立て初めてゐる。
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死者の書(正篇)
一
彼《か》の人の眠りは、徐《しづ》かに覚めて行つた。まつ黒い夜の中に、更に冷え圧するものゝ澱んでゐるなかに、目のあいて来るのを覚えたのである。
した した した 耳に伝ふやうに来るのは、水の垂れる音か。たゞ凍りつくやうな暗闇の中で、おのづと、睫が離れて来た。
膝が、肱が、徐ろに埋れてゐた感覚をとり戻して来るらしく、彼《か》の人《ひと》の頭に響いて居る。全身にこはばつた筋が、僅かな響きを立てゝ、掌、足裏に到るまで、ひきつれ[#「ひきつれ」に傍点]を起しかけてゐることを感じ初めた。
さうして、なほ深い闇。ぽつちりと目をあいて、見廻す瞳にまづ圧《あつ》しかゝる黒い巌の天
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