のお示しで、中臣の祖《おや》おしくもね、天の水の湧《わ》き口《ぐち》を、此二上山に八《や》ところまで見届けて、其後久しく 日のみ子さまのおめしの湯水は、中臣自身此山へ汲みに参りました。お聞き及びかえ。
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当麻真人《たぎまのまひと》の氏の物語である。さうして其が、中臣の神わざに繋りのある点を、座談のやうに語り進んだ姥は、ふと口をつぐんだ。
外には、瀬音が荒れて聞えてゐる。中臣の遠祖が、天《あめ》ノ二上に求めた天ノ八井《やゐ》の水は、峰を流れ降つて、此岩にあたつて激《たぎ》ち流れる川なのであらう。姫は瀬音のする方に向いて掌《たなそこ》を合せた。
併しやがて、ふり向いて、仄暗くさし寄つて来てゐる姥の姿を見た時、言ひ難い畏しさと、せつかれるやうな忙しさを一つに感じたのである。其に、志斐ノ姥が本式に物語をする時の表性が、此老女の顔に現れてゐる。今、当麻《たぎま》ノ語部《かたりべ》ノ媼《おむな》が、神憑りに入るやうに、わな/\震ひはじめたのである。


       四

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ひさかたの  天二上《あめふたかみ》に、
吾が登り   見れば、
飛ぶ鳥の   明日香《あすか》
ふる里の   神南備山《かむなび》隠《ごも》り
家どころ   多《さは》に見え、
豊《ゆた》にし    屋庭《やには》は見ゆ。
弥《いや》彼方《をち》に   見ゆる家群《いへむら》
藤原の    朝臣《あそ》が宿。
 遠々に    わが見るものを、
 たか/″\に 我が待つものを、
処女子《をめご》は   出で行《こ》ぬものか。
よき言《こと》を   聞かさぬものか。
青馬の    耳面刀自《みゝものとじ》。
 刀自もかも、女弟《おと》もがも、
 その子の   はらからの子の
 処女子の   一人
 一人だに   わが郷偶《つま》に来《こ》よ。
久方の    天二上
二上の陽面《かげとも》に、
生ひをゝり  繁《し》み咲く
馬酔木《あしび》の   にほへる子を
 我が     取り兼ねて、
馬酔木の   あしずりしづる
 吾《わ》はもよ    偲《しの》ぶ。藤原処女
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歌ひ了へた姥は、大息をついて、ぐつたりした。其から暫らく、山のそよぎ、川瀬の響きばかりが耳についた。
姥は居ずまひを改めて、厳かな声音で、言ひ出した。
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今のお歌の旧《もと》つ辞《ごと》を申しあげませう。此はお聞き知りにならぬ昔語りで御座る。だが、姫様にも深い図《かゝは》りのあることえ。心を静めてお聴きにならねばなりませぬ。
飛鳥の都に、 日のみ子様に近く侍つた高い御身分の方がいらせられました。近江の大津の宮の内に成人なされて、唐土の学問にも詣《いた》り深くおありになりました。此国で、詩《からうた》をはじめて作られたのは、大友皇子様か、其ともお方かと申し伝へて居るほどで御座ります。
近江の都は離れ、飛鳥の都が再栄えました頃、どうしたお心得違ひか、 日のみ子さまに弓を引くやうな企みをなされると言ふ噂が立ちました。
高天原広野姫尊《たかまのはらひろぬひめのみこと》様が、お怒りをお発しになりまして、とう/\池上の堤に引き出してお討たせになりました。
其お方がお死にの際《きは》に、深く/\思ひこまれた一人のお人が御座りまする。耳面刀自《みゝものとじ》と申す大織冠のお娘御の事で御座ります。前から深くお思ひになつて居たと云ふでもありません。唯、此郎女も、大津の宮離れの時に、都へ呼び返されて、寂しい暮しを続けて居られました。等しく大津の宮に愛着をお持ち遊した右の方が、愈|池上《いけがみ》の草の上で、お死になされると言ふことを聞いて、一目見てなごり惜しみがしたくてこらへられなくなりました。藤原から池上まで、おひろひでお出でになりました。小高い紫の一むらある中から、御様子を窺うて帰らうとなさいました。其時ちらりと、かのお人の最期に近いお目に止りました。其ひと目が、此世に残る執心となつたので御座りまする。
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もゝつたふ 磐余《いはれ》ノ池に鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ
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この思ひがけない心残りを、お詠みになつた歌だと、私ども当麻《たぎま》の語部では、伝へて居ります。その耳面刀自と申すのは、淡海公の妹君、姫様方の祖父《おほぢ》君|南家《なんけ》太政《だいじやう》大臣には、叔母様にお当りになつてゞ御座りまする。人間の執念と言ふものは怖いものとは思ひになりませんか。
其亡き骸は、大和の国を守らせよと言ふ御諚で、此山の上、河内から来る当麻路《たぎまぢ》の脇にお埋けになりました。其が何《なん》と此世の悪心も何もかも忘れ果てゝ清々《すが/\》しい心になりながら、唯そればかり一念となつて、残つて居る
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