浄域だけに、一時に塔頭々々《たつちう/\》の人々が、青くなつたのも道理である。此は、財物を施入すると謂つてだけではすまされない。長期の物忌みを、寺近くに居て果させねばならないと思つた。其で、今日昼の程、奈良へ向けて早使《はやづか》ひを出して、郎女《いらつめ》の姿が、寺中で見出された顛末を、仔細に告げてやつたのである。
其と共に、姫の身、は此庵室に暫らく留め置かるゝことになつた。たとえ、都からの迎へが来ても、結界を越えた贖ひだけは、こゝに居てさせようと言ふのである。
床は低いけれども、かいてあるにはあつた。其替り、天井は無上に高くて、而も萱のそゝけた屋根は、破風から、むき出しに空の星が見えた。風が唸つて過ぎたかと思ふと、其高い隙から、どつと吹き込んで来た。ばら/\落ちかゝるのは、煤がこぼれるのだらう。明王の前の灯が一時《いつとき》、かつと明くなつた。
その光りで照し出されたのは、あさましく荒んだ座敷だけではなかつた。荒板の床の上に、薦筵《こもむしろ》二枚重ねた姫の座席、其に向つてずつと離れた壁に、板敷に直に坐つて居る老婆が居た。
壁と言ふよりは、壁代《かべしろ》であつた。天井から吊りさげた竪薦《たつごも》が、幾枚も/\ちぐはぐに重つて居て、どうやら、風は防ぐやうになつて居る。その壁代に張りついたやうになつて居る女、先から※[#「亥+欠」、第3水準1−86−30]嗽《しはぶき》一つせぬ静けさである。
貴族の家の郎女は、一日もの言はずとも、寂しいとも思はぬ習慣がついて居た。其で、山陰の一つ家に居ても、溜め息一つ洩すのではなかつた。さつき此処へ送りこまれた時、一人の姥のついて来たことは知つて居た。だが、あまり長く音も立たなかつたので、人の居ることは忘れて居た。今ふつと明るくなつた御燈の色で、その姥の姿から顔まで一目で見た。何やら覚えのある人の気がする。さすがに、姫も人懐しかつた。ようべ家を出てから、女性《によしやう》には、一人も逢つて居ない。今そこに居る姥《うば》が、何だか、昔の知り人のやうに感ぜられるのも、無理はないのである。見覚えのあるやうに感じたのは、だが其親しみからばかりではなかつた。
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お姫さま。
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緘黙《しゞま》を破つて、却てもの寂しい乾声《からごゑ》が響いた。
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あなたは、御存じあるまい。でも此|姥《うば》は、生れなさらぬ前からのことも知つて居りまする。聴いて見る気がおありかえ。
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一旦、口がほぐれると、老女は止めどなく喋り出した。姫は、この姥の都に見知りのある気がした訣を悟つた。藤原南家にも、常々、此年よりとおなじやうな媼《おむな》が出入りして居た。郎女たちの居る女部屋までも、何時もづか/\這入つて来て、憚りなく物語つた。あの中臣志斐媼《なかとみのしひのおむな》――。
あれとおなじ表情をして居る。其も尤であつた。志斐ノ姥が藤氏《とうし》の語部《かたりべ》の一人であるやうに、此も亦、この当麻《たぎま》の村の旧族、当麻ノ真人《まひと》の氏《うぢ》の語部《かたりべ》だつたのである。
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藤原のお家が、今は四筋に分れて居りまする。だが、大織冠さまの代どころではありは致しませぬ。淡海公の時も、まだ一流れのお家で御座りました。併し其頃、やはり藤原は中臣と二つの筋に岐れました。中臣の氏人で、藤原の里に栄えられたのが、藤原と家名を申された初めで御座つた。
藤原のお流れは、公家《くげ》摂※[#「竹かんむり/(金+碌のつくり)」、第3水準1−89−79]《せふらく》の家柄、中臣の筋は、神事にお仕へする、かう言ふ風にはつきりと分ちがついてまゐりました。ぢやが、今は今昔は昔で御座ります。藤原の遠つ祖《おや》中臣の氏の神、天押雲根《あめのおしくもね》と申されるお方の事は、お聞き及びかえ。奈良の宮に御座ります 日の御子さま、其前は藤原の宮の 日のみ子さま、其又前は飛鳥の宮の 日のみ子さま、大和の国中《くになか》に宮遷し宮|奠《さだ》め遊した代々の 日のみ子さま、長く久しいみ代々々に仕へた中臣の家の神わざ、お姫様、お聞き及びかえ。
遠い代の昔語り。耳明らめてお聴きなされ。中臣藤原の遠つ祖《おや》あめのおしくもね。遠い昔の 日のみ子さまのお食《め》しの飯《いひ》とみ酒を作る御料の水を、大和|国中《くになか》残る隈なく捜し蒐めました。
その頃、国原の水は、水渋臭く、土濁りして、 日のみ子さまのおめしには叶ひません。天《てん》の神様、高天《たかま》の大御祖《おほみおや》教へ給へと祈るにも、国|中《なか》は国低し。山々も尚天に遠し。大和の国とり囲む青垣山では、この二上、山空行く雲の通《かよ》ひ路《ぢ》と昇り立つて、祈りました。その時、高天の大御祖
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