でやつれて居ても、服装から見てすぐ、どうした身分の人か位の判断はついたのである。
又暫らくして、四五人の跫音が、べた/\と岡へ上つて来た。今度は娘奴は姿を表さなかつた。年のいつたのや、若い僧が、ばら/\と走つて、塔の結界の外まで来た。
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こゝまで出て御座れ。そこは、男でも這入るところではない。女人は、とつとゝ岡を降ることだ。
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姫はやつと気がついた。さうして、人とあらそはぬ癖をつけられた貴族の家の子は、重い足を引きながら、結界の垣の傍まで来た。
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見れば、奈良の方さうなが、どうしてそんな処に入らつしやる。
どうして、之な処までお出でだ。
お伴すら連れないで。
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口々に問うた。男たちは咎める口とは別に、心ではめい/\、貴い女性をいたはる気持ちになつて居た。
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二上山に逢ひに……。そして今、山の頭をつく/\見て居た……。
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此頃の貴族の家庭の語と、凡下の人の語とはすつかり変つて居た。だから言ひ方も、感じ方も、其に語其ものすらも、郎女の語が、そつくり寺の所化などには、通じやうがなかつた。
でも其でよかつたのである。其でなくて、語の内容が其まゝ受けとられようものなら、南家の姫は、即座に気のふれた女と思はれてしまつたであらう。
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それで、御館《みたち》はどこやな。
みたち……。
おうちは……。
おうち……。
おやかたはと言ふのだよ。
をゝ。私の家。右京藤原南家……。
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俄然として、群集の上にざはめきが起つた。四五人だつたのに、後から/\登つて来た僧たちが加つて、二十人以上にもなつて居る。其が、口々に喋り出したのである。
ようべの嵐に、まだ残りがあつたと見えて、日の明るく照つて居る此小昼に、又風がざはつき出した。此の岡の崎にも、見おろす谷にも、其から二上山へかけての屋根々々にも、ちらほら白く見えて、花の木がゆすれて居る。小桜の花が咲き出したのである。
此時分になつて、奈良の家では、誰となく、こんな事を考へはじめた。此は、きつと里方の女たちがよくする春の野遊びに出られたのだ。何時からとも知らぬ習はしである。田舎人たちは、春秋の日夜平分する頂上の日には、一日、日の影を逐うて歩く風が行はれて居た。どこまでも/\野の限り、山も越え、海の渚まで日を送つて行つた女すら、段々あつた。さうして夜はくた/\になつて家路を戻る。此為来りを何時となく女たちの咄すのを聞いて、姫が女の行《ぎやう》として、此の野遊びをする気になられたのだ、と思つたのである。かう言ふ考へに落ちつくと、皆の心が一時ほうと軽くなつた。
ところが、其日も昼さがりになり、段々夕かげが催して来る時刻が来た。昨日は駄目になつた日の入りの景色が、今日は其にも劣るまいと思はれる華やかさで輝いた。横佩家の人々の心は、再重くなつて来た。
三
万蔵法院の北の山陰に、昔から小さな庵室があつた。昔からと言ふのは、貴人がすべて、さう信じて居たのである。荒廃すれば繕ひ/\して、人は住まぬ宿に、孔雀明王像が据ゑてあつた。当麻《たぎま》の村人の中には、稀に此が山田寺であると言ふものもあつた。さう言ふ人の伝へでは、万蔵法院は、山田寺の荒れて後、飛鳥の宮の仰せを受けてとも言ひ、又御自身の発起からだとも言ふが、一人の尊いみ子が、昔の地を占めにお出でになつて、大伽藍を建てさせられた。其際、山田寺の旧蹟を残す為に寺の四至の中の北の隅に、当時立ち朽りになつて居た庵室に手入れをして移されたのだと言ふのである。さう言へば、山田寺は、役《え》ノ君《きみ》「小角《をづぬ》」が山林仏教を創める最初の足代《あししろ》になつた処だと言ふ伝へが、吉野や、葛城の修験《しゆげん》の間にも言はれてゐた。何しろさうした大伽藍が焼けて百年、荒野の道場となつて居た目と鼻との間に、之な古い建て物が残つて居たと言ふのも、不思議なことである。
夜はもう更けて居た。谷川の激《たぎ》ちの音が、段々高まつて来る。二上山の二つの峰の間から流れ取る水なのだ。
廬の中は、暗かつた。炉を焚くことの少い此地方では、地下《ぢげ》の百姓は夜は真暗な中で、寝たり坐つたりしてゐるのだ。でもこゝには、本尊が祀つてあつた。夜を守つて、仏の前で起き明す為には、御燈《みあかし》を照した。
孔雀明王の姿が、あるか無いかの程に、ちろめく光りである。
姫は寝ることを忘れたやうに坐つて居た。万蔵法院の上座の僧綱たちの考へでは、まづ奈良へ使ひを出さねばならない。横佩家の人々の心を思うたのである。次には、女人結界を犯して門堂塔深く這入つた処は、姫自身に贖《あがな》はさねばならなかつた。落慶のあつたばかりの
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