なだれ落ちてゐる大きな曲線《たわ》が、又次第に両方へ聳《そゝ》つて行つてゐる此二つの峰の間《あひだ》の広い空際《そらぎは》。薄れかゝつた茜の雲が、急に輝き出して、白銀《はくぎん》の炎をあげて来る。山の間《ま》に充満して居た夕闇は、光りに照されて紫だつて動き初めた。
さうして暫らくは、外に動くもののない明るさ。山の空は、唯白々として照り出されて居る。
肌、肩、脇、胸、豊満な姿が、山の曲線《たわ》の松原の上に現れた。併し、俤に見つゞけた其顔のみはやつれてほの暗かつた。
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今すこし著《しる》くみ姿示したまへ。
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郎女の口よりも、皮膚をつんざいて、あげた叫びである。山腹の紫は、雲となつて靉き、次第々々に降る様に見えた。
明るいのは山の際《は》ばかりではなかつた。地上は砂《いさご》の数もよまれるばかりである。
しづかに/\雲はおりて来る。万法蔵院の香殿・講堂・塔婆・楼閣・山門・僧房・庫裡、悉く、金に、朱に、青に、昼より著《いちじる》く見え、自《みづか》ら光りを発して居た。
庭の砂の上にすれ/″\に、雲は揺曳して、そこにあり/\と半身を顕した尊者の姿が、手にとる様に見えた。匂ひやかな笑みを含んだ顔が、はじめて、まともに郎女に向けられた。伏し目に半ば閉ぢられた目は、此時姫を認めたやうに清《すゞ》しく見ひらいた。軽くつぐんだ唇は、この女性《によしよう》に向うて物を告げてゞも居るやうに、ほぐれて見えた。
郎女は尊さに、目の低《た》れて来る思ひがした。だが、此時を過ぐしてはと思ふ一心で、その御姿から目を外さなかつた。
あて人を讃へる語と思ひこんだあの語が、又心から迸り出た。
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あなたふと、阿弥陀仏 なも阿弥陀仏
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瞬間に明りが薄れて行つて、まのあたりに見える雲も、雲の上の尊者の姿も、ほの/″\と暗くなり、段々に高く/\上つて行く。
姫が目送する間もない程であつた。忽、二上山の山の端に溶け入るやうに消えて、まつくらな空ばかりがたなびいた。
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あつし あつし
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足を蹈み、前《さき》を駆《お》ふ声が、耳もとまで近づいて来た。
十三
当麻の邑は此頃、一本の草、一塊《ひとくれ》の石にも光りがあるほど、賑ひ充ちて居る。
当麻真人家の氏神|当麻津《たぎまつ》彦の社には、祭り時に外れた昨今、急に氏の上の拝礼があつた。故上総守|老《おゆ》[#(ノ)]真人以来、暫らく絶えて居たことであつた。其上、もう二三日に迫つた八月《はつき》の朔日《ついたち》には、奈良の宮から勅使が来向はれる筈であつた。当麻氏から出られた大夫人《だいふじん》のお生み申された宮の御代にあらたまることになつたからである。
廬堂の中は、前よりは更に狭くなつて居た。郎女が奈良の御館からとり寄せた高機《たかはた》を設《た》てたからである。機織りに長けた女も一人や二人は、若人の中に居た。此女らが動かして見せる筬《をさ》や梭《ひ》の扱ひ方を、姫はすぐに会得《えとく》した。機に上つて日ねもす、時には終夜《よもすがら》織つて見るけれど、蓮の絲は、すぐに円《つぶ》になつたり、断《き》れたりした。其でも倦まずさへ織つて居れば、何時か織れるものと信じてゐる様に、脇目からは見えた。
乳母は、人に見せた事のない憂はしげな顔を、此頃よくしてゐる。
何しろ、唐土《もろこし》でも、天竺から渡つた物より手に入らぬといふ藕絲織《はすいとおり》を遊ばさうと言ふのぢやものなう。
話相手にもしなかつた若い者たちにすら、こんな事を言ふ様になつた。
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かう絲が無駄になつては――。今の間にどし/\績《う》んで置かいでは――。
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刀自の語で、若人たちは又、広々とした野や田の面が見られると、胸の寛ぎを覚えた。
さうして、女たちの苅つた蓮積み車が、廬に戻つて来ると、何よりも先に、田居への降《くだ》り道に見た、当麻の邑の騒ぎの噂である。
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郎女様の亡くなられたお従兄《いとこ》も、嘸お嬉しいであらう。
恵美の御館《みたち》の叔父君の世界のやうになつて行くのぢや。
兄御を、帥の殿に落しておいて、愈其後釜の右大臣におなりるのぢやげな。
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あて人に仕へて居ても、女はうつかりすると、人の評判に時を移す。
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やめい/\。お耳ざはりぢや。
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しまひは、乳母が叱りに出た。だが身狭刀自《むさのとじ》自身の胸の中でも、もだ/\と咽喉につまつた物のある感じが、残らずには居なかつた。さうして、そんなことにかまけずに、何の訣か知らぬが、一心に絲を績み、機を織つて居る育ての姫君が、いとほし
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