くてたまらないのであつた。
昼の中多く出た虻は潜んでしまつたが、蚊は中秋になると、益あばれ出して来る。日中の昂奮で皆は正体もなく寝た。身狭までが、姫の起き明す燈の明りを避けて、隅の物蔭に深い鼾を立てはじめた。
郎女は、断《き》つては織り、織つては断り、手もだるくなつてもまだ梭《ひ》を放さない。
だが此頃の姫の心は満ち足らうて居た。あれほど夜々見て居た俤人《おもかげびと》の姿をも見ないで、安らかな気持ちが続いてゐる。
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此機を織りあげて、あの御人の素肌の御身を掩うてあげたい。
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其ばかり考へて居る。あて人は、世の中になし遂げられないと言ふことを知らないのであつた。
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ちやう ちやう はた はた
はた はた ちやう
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筬を流れるやうに手もとにくり寄せられる絲が、動かなくなつた。引いても扱《こ》いても通らない。筬の歯が幾枚も毀《こぼ》れて絲筋の上にかゝつて居るのが見える。
郎女は溜め息をついた。乳母に問うても知るまい。女たちを起して聞いた所で、滑らかに動すことはえすまい。
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どうしたら、よいのだらう。
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姫は、はじめて顔へ偏《かたよ》つてかゝつて来る髪のうるさゝを感じた。梭を揺つて見た。筬の櫛目を覗いて見た。
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あゝ、何時になつたら、衣《ころも》をお貸し申すことが出来よう。
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もう、外の叢で鳴き出した蟋蟀の声を、瞬間思ひ出して居た。
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どれ、およこし遊ばせ。かう直せば動かぬことも御座るまいて――。
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どうやら聞いた気がする、その声が機の外にした。
あて人の姫は、何処から来た人とも疑はなかつた。唯、さうした好意ある人を予想して居た時なので、
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では、見てたもれ。
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言ひ放つて、機をおりた。
女は尼であつた。髪を切つて尼そぎにした女は、其も二三度は見かけたこともあつたが、剃髪した尼を見たことのない姫であつた。
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はた、はた ちやう ちやう
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元の通りの音が整つて出て来た。
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草の絲は、かう言ふ風には織るものでは御座りませぬ。もつと寄つて御覧じ――。これかう――おわかりかえ。
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当麻語部[#(ノ)]姥の声である。だが、そんなことは、郎女には問題ではなかつた。
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おわかりなさるかえ。これかう――。
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姫の心はこだま[#「こだま」に傍点]の如く聡《さと》くなつて居た。此|才伎《てわざ》の経緯《ゆくたて》はすぐ呑み込まれた。
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織つてごらうじませ。
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姫が、高機に代つて入ると、尼は機蔭に身を倚せて立つた。
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はた はた ゆら ゆら
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音までが変つて澄み上つた。
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女鳥《めとり》の わがおほきみの織《おろ》す機。誰《た》が為《た》ねろかも――、御存じ及びで御座りませうなあ。昔、かう、機殿《はたどの》の※[#「片+總のつくり」、第3水準1−87−68]からのぞきこんで問はれたお方様がござりましたつけ。――その時、その貴い女性《によしやう》がの、
たか行くや 隼別《はやぶさわけ》の御被服科《みおすひがね》――さうお答へなされたとなう。
この中《ぢゆう》申し上げた滋賀津彦《しがつひこ》は、やはり隼別でも御座りました。天若日子でも御座りました。天《てん》の日《ひ》に矢を射かける――併し極みなく美しいお人で御座りましたがよ。
截りはたりちやう/\、早く織らねば、やがて岩牀の凍る冷い秋がまゐりますがよ――。
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郎女は、ふつと覚めた。夢だつたのである。だが、梭をとり直して見ると、
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はた はた ゆら ゆら ゆら はたゝ
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美しい織物が筬の目から迸る。
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はた はた ゆら ゆら
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思ひつめてまどろんでゐた中に、郎女の智慧が、一つの閾を越えたのである。


       十四

望の夜の月が冴えて居た。若人たちは、今日、郎女の織りあげた一反《ひとむら》の上帛《はた》を、夜の更けるのも忘れて、見讃《みはや》して居た。
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この月の光りを受けた美しさ。
※[#「糸+賺のつくり」、第3水準1−90−17]《かとり》のやうで、韓織《からおり》のやうで、――やつぱり此より外にはない、清らかな上帛《はた》ぢや。
[#ここで字
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