して居た頃と大差はなかつた。違ふのは、其家々の神々に仕へると言ふ、誇りでもあるが、小むつかしい事がつけ加へられて居る位のことである。
外出には、下人たちの見ぬ様に、笠を深々とかづき、其下には、更に薄帛を垂らして出かけた。一《いつ》時立たない中に、婢女《めやつこ》ばかりでなく、自身たちも田におりたつたと見えて泥だらけになつて、若人たち十数人は戻つて来た。皆手に手に張り切つて発育した蓮の茎を抱へて、廬の前に並んだのには、常々くすり[#「くすり」に傍点]とも笑はぬ乳母《おも》さへ、腹の皮をよつて切《せつ》ながつた。
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郎女《いらつめ》様。御覧じませ。
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竪帷《たつばり》を手でのけて、姫に見せるだけが、やつとのことであつた。
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ほう――。
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何が笑ふべきものか、何が憎むに値するものか、一切知らぬ上※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]《じやうらふ》には、唯常と変つた、皆の姿が羨しく思はれた。
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この身も、田居とやらにおり立ちたい――。
めつさうな。
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刀自は、驚いて姫の詞を堰き止めた。
女たちは、板屋に戻つても長く、健やかな喜びを、皆して語つて居た。
全く些《すこ》しの悪意もまじへないで、言ひたいまゝの気持ちから、
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田居へおりたちたい――。
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を反覆した。
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めつさうな。
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きまつて、誇張した表現で答へることも、此と同時に、この小社会で行はれ出した。何から何まで縛りつけるやうな身狭乳母《むさのおも》に対する反感が、此で幾分帳消しになる気がするのであらう。
其日からもう、若人たちの絲縒りは初まつた。夜はまつ暗の中で寝る女たちには、稀に男の声を聞くことのある奈良の垣内住ひが恋しかつた。朝は又、何もかも忘れたやうになつて績《う》み貯める。さうした絲の六かせ七かせを持つて出て、郎女に見せたのは、其数日後であつた。
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乳母《おも》よ。この絲は蝶鳥の翼よりも美しいが、蜘妹《くも》の巣《い》より弱く見えるがや――。
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郎女は、久しぶりでにつこりした。労を犒らふと共に考への足らぬのを憐むやうである。
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なる程、此は脆《さく》過ぎまする。
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刀自は、若人を呼び集めて、
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もつと、きれぬ絲を作り出さねば、物はない。
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と言つた。女たちの中の一人が、
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それでは、刀自に、何ぞよい思案が――。
さればの――。
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昔を守ることばかりはいかつい[#「いかつい」に傍点]が、新しいことの考へは唯、尋常《よのつね》の姥の如く愚かしかつた。
ゆくりない声が、郎女の口から洩れた。
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この身の考へることが、出来ることか試して見や。
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うま人を軽侮することを神への忌みとして居た昔人である。だが、かすかな軽《かる》しめに似た気持ちが皆の心に動いた。
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夏引きの麻生《をふ》の麻を績《う》むやうに。そしてもつと日ざらしよく、細くこまやかに――。
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郎女は、目に見えぬもののさとし[#「さとし」に傍点]を、心の上で綴つて行くやうに、語を吐いた。
板屋の前には、俄かに蓮の茎が乾し並べられた。さうして其が乾くと、谷の澱みに持ち下《お》りて浸す。浸しては暴《さら》し、晒しては水に潰でた幾日の後、筵の上で槌の音高くこも/″\、交々《こも/″\》と叩き柔らげた。
その勤しみを、郎女は時には、端近く来て見て居た。咎めようとしても思ひつめたやうな目して見入つて居る姫を見ると、刀自は口を開くことが出来なくなつた。
日晒しの茎を八《やつ》針に裂き、其を又幾針にも裂く。郎女の物言はぬまなざしが、ぢつと若人たちの手もとをまもつて居る。
果ては、刀自も言ひ出した。
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私も、績《う》みませう。
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績みに績み、又績みに績んだ。藕絲《はすいと》のまるがせが日に日に殖えて、廬堂《いほりだう》の中に、次第に高く積まれて行つた。
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もう今日は、みな月に入る日ぢやの――。
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暦《こよみ》のことを謂はれて、刀自はぎよつ[#「ぎよつ」に傍点]とした。大昔から暦は聖《ひじり》の与る道と考へて来た。其で、男女は唯、長老《とね》の言ふがまゝに、時の来又去つたことを知つて、村や家の行事を進めて行くばかりであつた。だから、教へ
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