下げ]
おいとほしい。お寒からうに。
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       十一

山の躑躅の色は様々である。色の一つのものだけが一時に咲き出して、一時に萎《しぼ》む。さうして、凡一月は、後から後から替つた色のが匂ひ出て、若夏の青雲の下に、禿げた岩も、枯れた柴木山も、はでなかざしをつける。其間に、藤の短い花房が、白く又紫に垂れて、老い木の幹の高さを切なく寂しく見せる。下草に交つて馬酔木《あしび》が雪のやうに咲いても、花めいた心を、誰に起させることもなしに過ぎるあはれさだ。
もう此頃になると、山は厭はしいほど緑に埋れ、谷は深々と、繁りに隠されてしまふ。郭公《くわつこう》は早く鳴き嗄らし、時鳥が替つて日も夜も鳴く。
草の花が、どつと怒濤の寄せるやうに咲き出して、山全体が花原見たやうになつて行く。里の麦は刈り急がれ、田の原は一様に青みわたつて、もうこんなに伸びたかと驚くほどになる。家の庭苑にも、立ち替り咲き替つて、植ゑ木、草花が何処まで盛り続けるかと思はれる。だが其も一盛りで、坪はひそまり返つたやうな時が来る。池には葦が伸び蒲が秀《ほ》き、藺《ゐ》が抽んでる。遅々として、併し忘れた頃に、俄かに伸《の》し上るやうに育つのは、蓮の葉であつた。
前年から今年にかけて、海の彼方の新羅の暴状が、目立つて棄て置かれないものに見えて来た。太宰府からは、軍船を新造して新羅征伐の設けをせよと言ふ命の降りるのを、都へ度々請うておこして居た。此忙しい時に、偶然流人太宰員外帥として、其処に居た横佩家の豊成は、思ひがけない日々を送らねばならなかつた。
都の姫の事は、子古の状で知つたし、又、京・西海道を往来する頻繁な使に文をことづてる事は易かつたけれども、どう処置してよいか、途方に昏れた。ちよつと見は何でもない事の様で、実は重大な家の大事である。其だけに彼の心の優柔は、益募るばかりであつた。
寺々の知音に寄せて、当麻寺へ、よい様に命じてくれる様にと書いてもやつた。又横佩墻内の家の長老《とね》・刀自たちには、ひたすら、汝等の主の郎女を護つて居れと言ふやうな、抽象なことを答へて来た。
次の消息には、何かと具体的な仰せつけがあるだらうと待つて居る間に、日が立ち月が過ぎて行くばかりである。其間にも姫の失はれたと見える魂が、お身に戻るかと、其だけで山村に人々は止つて居た。物思ひに屈託ばかりしても居ない若人たちは、もう池のほとりにおり立つて、伸びた蓮の茎を切り集め出した。其を見て居た寺の婢女《めやつこ》が、其はまだ若い、まう半月もおかねばと言つて、寺田の一部に蓮根《はすね》を取る為に作つてあつた蓮田《はちすだ》へ案内しようと言ひ出した。
あて人の家自身が、農村の大家《おほやけ》であつた。其が次第に官人《つかさびと》らしい姿に更つて来ても、家庭の生活は、何時まで立つても、何処か農家らしい様子が、家構へにも、屋敷の広場《には》にも、家の中の雑用具にも、残つて居た。第一、女たちの生活は、起居《たちゐ》ふるまひ[#「ふるまひ」に傍点]なり、服装なりは優雅に優雅にと変つては行つたが、やはり昔の農家の家内の匂ひがつき纏うて離れなかつた。
刈り上げの秋になると、夫と離れて暮す年頃に達した夫人などは、よく其家の田荘《なりどころ》へ行つて、数日を過して来るやうな習はしも、絶えることなくくり返されて居た。
だから、刀自たちは固より若人らも、つくねん[#「つくねん」に傍点]と女部屋の薄暗がりに明し暮して居るのではなかつた。其々に自分の出た村方の手芸を覚えて居て、其を仕へる君の為にと、出精してはたらいた。
裳の褶を作るのにない[#「ない」に傍点]術《て》を持つた女などが、何でも無いことで、とりわけ重宝がられた。袖の先につける鰭袖《はたそで》を美しく為立てゝ、其に珍しい縫ひとりをする女なども居た。こんなのは、どの家庭にもある話でなく、かう言ふ若人をおきあてた家は、一つのよい見てくれを世間に持つ事になるのだ。一般に染めや裁ち縫ひが、家々の顔見合はぬ女どうしの競技のやうにもてはやされた。摺り染めや叩き染めの技術も、女たちの間には目立たぬ進歩が年々にあつたが、浸《ひ》で染めの為の染料が、韓の技工人《てびと》の影響から、途方もなく変化した。紫と謂つても、茜と謂つても、皆昔の様な染め漿《しほ》の処置《とりあつかひ》はせなくなつた。さうして、染め上げも艶々しくはでなものになつて来た。表向きは、かうした色は許されぬものと次第になつて来たけれど、家の女部屋までは、官《かみ》の目が届くはずもなかつた。
家庭の主婦が手まはりの人を促したてゝ、自身も精励してするやうな為事は、あて人の家では、刀自等の受け持ちであつた。若人たちも、田畠に出ないと言ふばかりで、家の中での為事は、見参《まゐりまみえ》をしないで、田舎に暮
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