たものと見える。
返し祝詞は、宮内省掌典部の星野輝興氏が、多くを採集して居られる。
千秋万歳の、宮中初春の祝言に出るのは、室町頃から見えてゐる。此は北畠・桜町の唱門師の為事であつた。忌部の事務の、卜部の手に移つたものは多い。其が更に、陰陽道の方に転じて、その配下の奴隷部落の専務と言ふ姿になつたものであらう。社寺の奴隷はある点では、一つものと誤解せられる傾きがあつた。それを又利用して、口過ぎのたつきとした。社寺の保護が完全に及ばぬ様になると、世の十把一とからげの考へ方に縋つて、大体同じ方向の職業に進むことになつた。手工類の内職で、伝習に基礎を置くものは別として、本業は事実、混乱し易く、此を併合しても目に立たなかつた。唱門師なども、大抵寺奴であり、社奴であると言ふ資格から、入り乱れて、複雑な内容を持つた職業を作り上げたが、唱門なる語の輪廓がむやみに拡つて、すべてを容れる様になつたと言ふ側からも考へられる。
寺の奴隷から出たものは、三井寺の説経師・叡山の導師の唱導を口まねをした、本縁・利生・応報の実例を、章句としては律要素の少い、口頭の節まはしに重きを置くやうな説経を語つて、口過ぎのたつきとしたらしい。さうして後から出た田楽や、猿楽能の影響を受けながら、室町に入つて、曲目も一変したらしい。一方、神人と言はれる社奴の方には、卜部の部下が、忌部以来の寿詞風の「屋敷ぼめ」や、此徒唯一の財源でもあり、神人の唯一財源とも見えた、民間様々の時期の祓《ハラ》へに頼まれて、暮しを立てゝゐた。其が、王朝の末から、段々融合して、「今昔物語」にも見えるやうな、房主頭で、紙冠をつけた祓神主さへ出現する事になつて来た。神職・神人が神の外に仏に事《つか》へることを憎しまなかつた時代だから、かう言ふ異形の祭官をも、不思議とせぬ時が続いて来た。而も、尚一つ唱門の本職と結びつかねばならぬ暗示が、古くからあつた。其はほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]の一等古い形式が、前型になつて居るのである。
土御門家の禁制によつて、配下の唱門師が説経節を捨てなければならなくなつたのは、江戸の初めの事である。其までの間は、新形の説経として、謡曲類似の詞曲と「曲舞《クセマヒ》」とを持ち、祓《ハラ》へや、屋敷《ヤシキ》ぼめをして居たのである。唯、わりあひに戦国の世には、歴史家の空想を超越した安らかな生活が、下々の民の上には在
前へ 次へ
全34ページ中15ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング