ない祝詞の範囲まで入り込んで行つた。併し、此二つほど、限界の入り乱れて居るものはない。一つを説く為には、今一つを註釈とせぬ訣には行かない。寿詞の範囲が狭まり、祝詞が段々新しい方面まで拡つて行つた為、大体には、二様の名で区別を立てる様になつた。新作の祝詞と言ふべき分までも、寿詞と言つたのが飛鳥朝の末・藤原の都頃であつた。祝詞の名は、奈良に入つて出来たもので、唯此までもあつた「告《ノ》り処《ト》」なる神事の座で唱へる「のりと言《ゴト》」に限つての名が、漸くすべての呪言の上におし拡められて来たのである。
巡遊伶人の生活
一 祝言職
人の厭ふ業病をかつたい[#「かつたい」に傍線]といふ事は、傍居《カタヰ》の意味なる乞食から出たとするのがまづ定論である。さすれば、三百年以来、おなじ病人を、ものよし[#「ものよし」に傍線]と言ひ来つた理由も、訣《わか》る事である。ものよし[#「ものよし」に傍線]なる賤業の者に、さうした患者が多かつたか、又は単に乞食病ひと言ふ位の卑しめを含ませたものとも思はれる。ものよし[#「ものよし」に傍線]が、近代風の乞食者となるまでには、古い意味の乞食者即、浮浪祝言師――巡遊伶人――の過程を履《ふ》んで来て居る事が思はれる。千秋万歳《センズマンザイ》と言へば、しかつめらしいが、民間のものよし[#「ものよし」に傍線]と替る所がなく、後々はものよし[#「ものよし」に傍線]の一部の新称呼とまでなつて了うた。
奈良の地まはりに多い非人部落の一つなるものよし[#「ものよし」に傍線]は、明らかにほかひ[#「ほかひ」に傍線]を為事にした文献を持つて居る。
倭訓栞に引いた「千句付合」では、屋敷をゆるぎなくするものよし[#「ものよし」に傍線]の祝言の功徳から、岩も揺がぬと言ひ、付け句には「景」に転じてゐる。
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あづまより夜ふけてのぼる駒迎へ、夢に見るだに、ものはよく候
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とある狂歌「堀川百首」の歌は、ものよし[#「ものよし」に傍線]の原義を見せてゐる。もの[#「もの」に傍線]は物成《モノナリ》などのもの[#「もの」に傍線]と同様、農産の義と見えるが、或は漠然とした表し方で、王朝以来の慣用発想なる某――「物《モノ》」なる観念に入れて、運勢をもの[#「もの」に傍線]と言うたのかも知れない。
江家次第には、物吉
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