つた一つの理由は、かうした治外法権式の階級が発達して、支配に苦しめられた事もあるのである。此様に、形式上寺家の所有となつたゞけだから、法師・陰陽師の妻が巫女であつたり、盲僧が歌占巫女を女房としたりしたのである。
くゞつ[#「くゞつ」に傍線]とほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]との相違は、くゞつ[#「くゞつ」に傍線]の海・川を主として、後に海道に住み著いて宿《シユク》をなした者も多いのに、ほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]は水辺生活について、何の伝説も持たない。早く唱門師になつた者の外は、山人又は山姥と言はれた山の神人として、山中に住んだのもあらう。又、くゞつ[#「くゞつ」に傍線]に混じて、自らさへくゞつ[#「くゞつ」に傍線]と信ずる様になつた者もあらう。
ほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]は細かに糺して見ると、くゞつ[#「くゞつ」に傍線]と同じものでない処が見える。海語部の外に、他の国々氏々の神人も多く混つてゐた。唯《ただ》後に、僧形になつて仏・道・神三信仰を併せた形になつたものと、山に隠れ里を構へて、山伏し・修験となつた一流と、くゞつ[#「くゞつ」に傍線]に混淆した者とがあつたことは言はれる。
今は仮りに、ほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]を、海から天に字を換へた様に海部から山人に変つたものと、安曇氏の管轄に属する海部以外の者と見て置く。私は、くゞつ[#「くゞつ」に傍線]・傀儡子同種説は、信ずる事が出来ないで居る。くゞつ[#「くゞつ」に傍線]の民は、海のほかひ[#「ほかひ」に傍線]を続けて、後代までえびす神[#「えびす神」に傍線]を持ち廻つた様に、猿女などの後ではないかと思ふ。

[#5字下げ]三 社寺奴婢の芸術[#「三 社寺奴婢の芸術」は中見出し]

此項に言ふ事は、わりに文学に縁遠い方面に亘らねばならぬ。宮廷の物語は平安に入ると、記録せられるものもあり、亡びるものは亡びる事になつたらしい。其が、先代の語部の意義において仕へてゐた女房の仮名文によつて、歌物語の描写が、段々新作を導く様になつた。中篇小説から長篇小説に進んで、源氏物語の様な大家庭小説までも生んでゐる。だが、短篇小説は、細かく言へば、別の経路を通つてゐる。真言からうた[#「うた」に傍線]・ことわざ[#「ことわざ」に傍線]が出来た。だからうた[#「うた」に傍線]は必須知識として、ことわざ[#「ことわざ」に傍線]同様の呪力あるもの、或は氏・国の貴人として、知らねばならない旧事とせられて居た。
其成立の事情は、説話として、口頭対話式をとつたのも、奈良以前から既にあつたものと言うてよい。此が風土記などゝ別な意味で、国別に書き上げを命ぜられた事もあつたらしい。東歌・風俗の様なものは、奈良以前からあつたと考へてよい。だから歌物語は逸話の形をとつてゐた。中篇は家によつて書く形で、今考へられる形は、ある人物のある時期の間の事実を主としてゐるものだ。源氏物語は、歌物語と中篇小説とを併せた形である。
宮廷の女房文学では、かうまで発達したが、地方の伝承では、飛鳥末から段々、宮廷伝承に習合せられ、又は自身調子を合せる様になつて行つた。家々の纂記、後代の本系帳式の物や、国々の「語部物語」の説話化したのや、土地によつて横に截断した物を蒐集したりして、風土記の一部は編纂せられた。
出雲風土記には、語部の伝誦を忠実に書きとつたらしい部分が多いが、播磨のになると、大抵説話化して居たらしい書き方である。が尚、古い物語の口写しらしい処も見える。国は古くても、定住のわりに新しい里が多かつたのであらう。
一体、風土記に歌を録することの尠いのは、奈良人の古伝承信用の形式に反《そむ》いて居る。常陸の分は、長歌めいた物は漢訳するつもりらしいが、短歌やことわざ[#「ことわざ」に傍線]は、原形を尊重して記してゐる。此は短歌が文学化し始めた頃であり、枕詞・序歌・訓諭などが、短篇小説に近い物語・説話を伴うて居た為であらう。常陸のは、まづ文学意識の著しく出た地誌と言へる。
概して言へば、諸国・諸土豪の物語は、中央の宮廷貴族の伝承より、早く亡びたものと見てよからう。旧国造は、多く郡領に任ぜられて、神と遠のかねばならなかつた。さうした国や氏々は幸福な方で、早く滅された国邑の君を神主と仰いだ神人たちは、擁護者と自家存在の意義とを失うて了うたのである。此が、ほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]として流離した最初の人々であらう。神人は、大倭の顕《あき》つ神の宰《みこともち》たる国司等の下位になつた神の奴隷として没収せられ、虐使せられる風があつた様だから、どうしても亡命せねば居られなかつた地方もあつたであらう。
此等の民が、或は新地を遠国の山野に得て、村をなした例もある。此は奈良朝より古い事らしい。郷国では、神と神との「霊争《モノアラソ》ひ」に負けた神として、威力を失うても、他郷に出れば、新来《イマキ》の神として畏れ迎へられるのである。どうしても、団体亡命の事情が具つて居た訣である。
国々の語部の物語も、現用のうた[#「うた」に傍線]に絡んだものばかりになり、其さへ次第に頽《すた》れて行つたらしい。わりに長く、平安期までも保存せられたものは、其国々の君が宮廷に奉仕した旧事を物語つて「国ぶりうた」の本《モト》を証し、寿詞同様の効果をあげることを期する物語である。さうした国々は、平安中期には固定してゐた。其事情は、色々に察せられるが、断案は下されない。
古くは、数人の語部の中、或は立ち舞ひ、或は詠じ、或は又其本縁なる旧事を奏するものなどがあつたであらう。
後期王朝中期以後には、物語は大嘗祭にのみ奏せられた。「其音|祝《ノリト》に似て、又歌声に渉《ワタ》る」と評した位だ。語部は、宮廷に於てさへ、事実上平安期には既に氓《ほろ》びて、猿女《サルメ》の如きも、大体伝承を失うて居た。まして、地方は甚しかつたであらう。唯語部と祝師《ノリトシ》との職掌は、分化してゐる様でしてゐない有様であつたから、祝師(正確に言へば、ほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線])には物語が伝つて居たのである。
ほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]の国まはりの生計には、ことほぎ[#「ことほぎ」に傍線]の外に、諷諭のことわざ[#「ことわざ」に傍線]及び感銘の深い歌が謡はれ、地の叙事詩が語られる様になつたと見られる。其演奏種目が殖えて行つて、ほかひ[#「ほかひ」に傍線]・ことほぎ[#「ことほぎ」に傍線]よりも、くづれ[#「くづれ」に傍線]とも言ふべき物語や狂言・人獣の物まね・奇術・ふりごと[#「ふりごと」に傍線]などがもてはやされた。此等は、奈良以前から既にあつた証拠が段々ある。
平安朝になると、一層甚しく、祝言職と言へば、右に挙げたすべての内容を用語例にしてゐたのである。平安朝末から鎌倉になると、諸種のほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]・くゞつ[#「くゞつ」に傍線]は皆、互に特徴をとり込みあうて、愈複雑になつた。ちよつと見には、どれが或種の芸人の本色か分らなくなつた。「新猿楽記」を見ると、此猿楽は恐らく皆、千秋《センズ》万歳の徒の演芸種目らしく思はれる。其中には、千秋万歳系統のほかひ[#「ほかひ」に傍線]の芸は勿論、神楽の才の男の態、呪師・田楽側の奇術や、器楽もあれば、狂言があり、散楽伝来の演劇がゝつたものもあり、同じ筋の軽業の類もある。又盲僧・瞽女《ごぜ》の芸、性欲の殊に穢い方面を誇張した「身ぶり芸」も行はれた事が知れる。尤《もつとも》、まじめな曲舞なども交つてゐたに違ひない。
此が、田遊び・踊躍《ユヤク》念仏を除いた田楽の全内容にもなつた。今、能楽と言ふ猿楽も、初めはやはり、此であつたであらう。田楽が武家の愛護を受けてから、曲舞に近づいて行つたと同じく、猿楽も肝腎の狂言は客位に置く様になつて、能芸即神事舞踊に演劇要素を多くした。声楽方面には、曲舞・田楽・反閇《ヘンバイ》などの及ばぬ境地を拓いた。取材は改り、曲目も抜群に増加し、詞章はとりわけ当代の美を極めた。そして、室町将軍の擁護を受ける様になつてからは、愈向上した。けれども、元は唱門師《シヨモジン》同様の祝言もする賤民の一種であつて、将軍の恩顧を得たのも、容色を表とする芸奴であつたからである。
幸若太夫が「日本記」と称する神代語りを主とするのは、反閇《ヘンバイ》の謂はれを説くためである。田楽法師の「中門口《チユウモングチ》」を大事とするのは、神来臨して室寿《ムロホギ》をする形式である。猿楽に翁をおもんじ、黒尉《クロジヨウ》の足を踏むのも、家及び土地の祝言と反閇《ヘンバイ》とである。

[#5字下げ]四 唱門師の運動[#「四 唱門師の運動」は中見出し]

唱門師は、神事関係の者ばかりでなく、寺との因縁の深かつたものも多かつた。だが、大寺の声聞身《シヨモジン》なる奴隷が、唱門師(しよもじん)の字を宛てられる様になつたのは、陰陽家の配下になつた頃からの事である。
彼等の多くは、寺の開山などに帰服した原住者の子孫であつたから、祀る神を別に持つてゐて、本主の寺の宗旨に、必しも依らねばならないことはなかつた。神奴でも同じで、祖先が主神に服従を誓うた関係を、長く継続せねばならぬと信じてゐたゞけで、社の神以外に、自身の神を信じて居た例が段々ある。
さうした「鬼の子孫」の「童子」のと言はれる村或は、団体が、寺の内外に居た。其等ほかひ人[#「ほかひ人」に傍線]と童子との外に、今一つ声聞身出自の一流派に属する団体がある。其は修験者とも、山伏し・野ぶしとも言うた人々である。
修験道の起りは藤原の都時代とあるが、果して役《エン》[#(ノ)]小角《ヲヅヌ》が開祖か、又は正しく仏教に属すべきものか、其さへ知れないのである。役[#(ノ)]行者の修行は或は、其頃流行の道教の仙術であつたのかも知れない。当時には大伴仙・安曇仙・久米仙などの名が伝へられて居り、天平には禁令が出て、出家して山林に亡命することを止めたのである。其文言を見ると、仏教・道教に厳重な区劃は考へてゐなかつた様であるが、万葉巻五の憶良の「令反惑情歌」は、其禁令の直訳なのに拘らず、道教側の弊ばかり述べてゐる。
其よりも半世紀も前の事である。山林に瞑想して、自覚を発した徒の信仰が、果して仏家の者やら、道教の分派やら、判断出来なかつたに違ひない。続日本紀を見ても、平安朝の理会を以て、多少の記録に対した処で、もう伝来の説を信じるより外はなくなつて居たらう事が察せられる。修験道の行儀・教義は、ある点まで、新しい仏教――天台・真言――の修法を主とする験方の法師等の影響を受けて居さうである。だから、奈良以前の修験道を考へる事は、平安時代附加の部分のとり除かれない間はおぼつかない。
山の神人即、山人の信仰が、かうした一道を開く根になつたのである。其懺悔の式も亦、懺法などの影響以前からある。山の神は人の秘密を聴きたがるとの信仰と、若者の享ける成年戒の山ごもりの苦行精神とが合体してゐるのである。
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足柄の御坂《ミサカ》畏《カシコ》み、くもりゆの我《ア》が底延《シタバ》へを、言出《コチデ》つるかも(万葉巻十四)
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畏《カシコ》みと 告《ノ》らずありしを。み越路《コシヂ》の たむけに立ちて、妹が名|告《ノ》りつ(万葉巻十五)
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恋しさに名を呼んだのではなく、「今までは、身分違ひで、名をさへ呼ばずに居た。其に、越路へ越ゆる愛発《アラチ》山の峠の神の為に、たむけ[#「たむけ」に傍線]の場所で、妹が名を告白した」と言ふのである。
修験道の懺悔は、此意義から出て、仏家の名目と形式の一部を採つたのである。又、御嶽精進《ミタケサウジ》も、物忌みの禁欲生活で、若い人々の山籠りをして神人の資格を得る、山人信仰の形式から出たものと見る方が正しいのである。唯、女の登山を極端に忌んだのは、山の巫女(山姥)さへ択び奨めた古代の信仰とは違ふ様だが、成年戒を享ける期間に、女に近づけぬ形の変化なのだ。
山人の後身なる修
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