験者は、山人に仮装し馴れた卜部等の、低級に止つた唱門師《シヨモジン》と同じ一つの根から出てゐた。修験者の仮装して戒を授ける山神は、鬼とおなじ物であつた。其を引き放して、仏家式の天狗なる新しい霊物に考へ改めた。だから天狗には、神と鬼との間の素質が考へられて居る。よく言ふ天狗の股を裂くと言ふ伝へも、身体授戒の記憶の枉《まが》つて伝つてゐるものらしい。
役[#(ノ)]小角が自覚したと言ふ教派は、まづ此位の旧信仰を土台にして、現れたものらしい。其に最初からも、後々にも陰陽道の作法・知識が交つたものらしい。
平安以後の修験道は、単に行力を得る為に修行するだけで、信仰の対象は疾くに忘れられてゐた。奈良朝以前の修験道と、平安のと、鎌倉以後の形式とでは、先達らの資格から違うてゐる。平安期には、験方の加持修法を主とする派の験者以外に、旧来の者を優婆塞《ウバソク》・山ぶしなどゝ言ひ別けた。さうして、両方ある点まで歩み寄つてゐた。鎌倉以後になると、寺の声聞身等が、優婆塞姿であり、旧来の行者同様、修験者の配下について、此方面に入る者も出来た事は考へられる。山伏しになつた中には、陰陽師と修験者とを兼ねた、ことほぎ[#「ことほぎ」に傍線]・禊ぎ・厄よけ・呪咀などを行ふ唱門師《シヨモジン》もあつた事は疑ひはない。此方面に進んだものは、最自由にふるまうた。
此山ぶし[#「山ぶし」に傍線]・野ぶし[#「野ぶし」に傍線]と言ふ、平安朝中期から見える語には、後世の武士の語原が窺はれるのである。「武士《ブシ》」は実は宛て字で、山・野と云ふ修飾語を省いた迄である。此者共の仲間には、本領を失うたり、郷家をあぶれ出たりした人々も交つて来た。党を組んで、戦国の諸豪族を訪れ、行法と武力とを以て、庸兵となり、或は臣下となつて住み込む事もあつた。そして、山伏しの行力自負の濫行が、江戸の治世になつても続いた。諸侯の領内の治外法権地に拠り、百姓・町人を劫《おびや》かすばかりか、領主の命をも聴かなかつた。其為、山伏し殺戮が屡《しばしば》行はれてゐる。
叡山を中心にした唱門師の外に、高野山も亦、一つの本部となつてゐた。苅萱|唱門《ソウモン》など言ふ萱堂聖以外に、谷々に童子村が多かつた。高野聖、後に海道の盗賊の名になつたごまのはひ[#「ごまのはひ」に傍線]なども、此山出の山伏し風の者であつた。
今も栄えてゐる地方の豪族の中には、山伏しから転じて陰陽師となり、其資格で神職となつたのが多い。かういふ風に変化自在であつた。山伏しの唱文を、陰陽師式に祭文と称へた理由も明らかである。陰陽師の禊祓の代りに、懺悔の形式をとつて、罪穢を去るのである。「山伏し祭文」は、江戸になつて現れて来るが、事実もつと早くから行はれたに違ひない。先達代つて、罪穢を懺悔すれば、多くの人々の罪障・触穢・災禍が消滅すると考へるのである。身の罪業を告白すると言ふ形式が、芸術化して来たのである。
室町時代の小説類に多い「さんげ物」は勿論だが、江戸の謡ひ物の祭文は「山伏し祭文」から出て、ある人の罪業告白の自叙伝式の物になり、再転して「色さんげ」から、故人の恋愛生活などを言ひ立てることになつた。錫杖《しやくぢやう》と法螺《ほら》とを伴奏楽器とした。唱文は家の鎮斎を主として、家を脅すもの、作物を荒す物などを叱る詞章であつた。其くづれの祭文が、くどき[#「くどき」に傍線]めいたものであつた。其傾向が、他の条件と結合した。
さんげ[#「さんげ」に傍線]物語は山伏しの祭文以外にも、高野其他の念仏聖或は熊野比丘尼などの自身の半生を物語る様な形で唱へた身代りさんげ・菩提すゝめの懺悔文から影響せられてゐる様だ。寧、山伏しは祭文のおどけ[#「おどけ」に傍線]に富んだ処へ、男女念仏衆のさんげ[#「さんげ」に傍線]種を、とり込んだのであらう。さうして、もつと明るく、浮き立つ様なものにしたのではないか。色祭文・歌祭文など、皆ちよぼくれ[#「ちよぼくれ」に傍線]となり、あほだら経[#「あほだら経」に傍線]となるだけの素地を見せて居た。祭文には「さんげ念仏」と共通のさんげ[#「さんげ」に傍線]の語句があつた。さうした処から次第に念仏に歩みより、遂には、山伏しの手を離れて、祭文語りの側に移つたらしい。
歌比丘尼は、悪道苦患の掛軸を携へて、業報の贖《あがな》ひ切れぬ事を諭す絵《ヱ》解きを主として居た。其が段々変化して、石女《ウマズメ》の堕ちる血の池地獄のあり様、女の死霊の逆に宙を踏んで詣る妙宝山の様などをも謡ふ様になつた。
其に対して、歌順礼は、主として成年戒得受以前に死んだ者の受ける悩みを、叙事詩や、短詩形の短歌で謡うた。此は熊野の歌占巫女《ウタウラミコ》から胚胎したのであらう。三十三所の順礼歌の最後が「谷汲」であり、さんげ念仏[#「さんげ念仏」に傍線]の小栗転生物語の小萩の居たのは青墓であつた。熊野と美濃との関係は閑却出来ぬ。
あひの山ぶし[#「あひの山ぶし」に傍線]は、和讃・今様から、絵解きに移り、更に念仏化したものらしい。男性のたゝき[#「たゝき」に傍線]の一方の為事になつて行く。
此たゝき[#「たゝき」に傍線]と言ふものは、思ふに「節季候《セキゾロ》」が山の神人(山人)の後身を思はせる如く、海の神人の退転したのではあるまいか。私は、くゞつ[#「くゞつ」に傍線]の民の男性の、ほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]の仲間に入つたものゝ末の姿だと思うてゐる。其以前の形は、あまの囀り[#「あまの囀り」に傍線]の様に、早口で物を言うて、大路小路を走る胸たゝき[#「胸たゝき」に傍線]であつた。此に対する女性は、姥たゝき[#「姥たゝき」に傍線]と言はれるものがあつた。此外にも、くゞつ[#「くゞつ」に傍線]の遊女化せぬ時代の姿を、江戸の末頃近くまで留めてゐたのは、桂女《カツラメ》である。あの堆《うづたか》く布を捲き上げた縵《カヅラ》は、山縵ではなかつた。
[#5字下げ]五 他界を語る熊野唱導及び念仏芸[#「五 他界を語る熊野唱導及び念仏芸」は中見出し]
聖の徒は、僧家の唱導文を、あれこれ通用した。説経の座にも、成仏を奨める念仏の庭にも、融通してゐる内に、段々分科が定まつて行つたらしい。
口よせ[#「口よせ」に傍線]の巫術は「本地《ホンヂ》語り」に響いた。此を扱ふのは、多くは、盲僧や陰陽師・山伏しの妻の盲御前《メクラゴゼ》や、巫女の為事となつた。熊野には、かうした巫術が発達した。初めに唱へられる説経用の詞章が、陰惨な色あひを帯びて来ないはずはない。
念仏踊りの源も、また大きな一筋を此地に発した。念仏の両大派の開祖の種姓は伝説化してゐるが、高貴の出自を信じることは出来ない。やはり単に、寺奴なる「童子|声聞身《シヨモジン》」の類であつたらしい。念仏の唱文に、田楽の踴躍《ユヤク》舞踊を合体させたものが、霊気退散の念仏踊りになつたらしい。田楽が念仏踊りの基礎となり、田楽の目的なる害虫・邪気放逐を、霊気の上に移したばかりなのを見ても、念仏宗開基の動機は、あまりに尋常過ぎて居る。自然発生らしい信仰が、開祖の無智な階級の出なる事を示して居るのである。
熊野念仏は、寺奴|声聞身《シヨモジン》から大宗派を興す動機になつた。熊野田楽のふり[#「ふり」に傍線]と、熊野巫覡の霊感とが、聖《ヒジリ》階級の念仏衆の信仰・行儀に結びついたのだ。熊野巫女や熊野の琵琶弾きは、何時までも、信者の多い東国・奥州へ出かけて、念仏式な「物語」を語つた。義経記《ギケイキ》は、盲僧の手にかゝつて、一種の念仏式説経となり、瞽巫女《ゴゼ》や歌占巫女の霊感は、曾我物語を為《シ》あげて、まづ関の東で、地盤を固めた。曾我物語は、熊野信仰の一分派と見られる箱根・伊豆山二所を根拠とする、瞽巫女の団体の口から、語りひろげられ、語りつがれたものらしいのである。
義経記及び曾我物語は、此ら盲巫覡の幻想の口頭に現れ始めた物語で、元は、定本のなかつたものと見てよい。此二つの物語の主人公の、若くして寃屈《ゑんくつ》の最期を遂げた霊気懺悔念仏の意味から出たもので、其物語られる詞は、義経や、曾我兄弟の自ら告げたものであるから、邪気・怨霊・執念の、其等若武家には及ばぬものを、直ちに退散させるものとの信仰もあつたのであらう。
生霊・死霊の区別の明らかでない古代に、謡ひ物のとはず語りから得る実感は、語り手を曲中の人物と考へる癖が伝つて居た。後には主人公自身でなく、其親近の人の、始めて語つた物であり、同時に目前に現れて物語つてゐると言ふ錯覚が起つた。即、義経記では生き残つた常陸房海尊、曾我物語では虎御前と考へたらしい。最初の語り手から受けついだ形が転じて、生き存《ナガラ》へた人の目撃談、とりも直さず、其神に仕へる巫覡が伝宣する姿に移して考へる様になつたのだ。
室町時代に、京に上つて来たといふ若狭の八百比丘尼なども、念仏比丘尼の上のさうした論理の投影した長寿信仰であつたのであらう。さうしておもしろいのは、常陸房にも、八百比丘尼にも、一个処懺悔の俤《おもかげ》を残してゐることだ。比丘尼は人魚の肉を盗み喰うた事、海尊は主従討ち死の時に居あはさなかつた事を悔いて居る。
不老不死の霊物を盗んで、永生する説話は到る処にあるが、比丘尼の場合は、長寿の原因を言ふ必要がないのであつた。此はさんげ[#「さんげ」に傍線]の形式に入れた証拠だ。「五十年忌歌念仏」には、お夏自身、亡夫の妹と、念仏比丘尼となつて廻国する処で書き収めてある。念仏の一つの特徴である。又、西沢一風は姫路で、お夏のなれのはてといふ茶屋の婆を見たと書いてゐる。お夏は実在したかどうかも分らぬもので、熊野聖の笠を歌うた小唄をとり込んだ「清寿さんげ」の念仏物語から来た社会的幻想であらう。熊野比丘尼の一種に、清寿と言ふものがあつたらしい――白霊人書・水茎のあと――のだ。やはり歌念仏を語る女なるが故に、其詞章の上の、女主人公或は副主人公とも言へる人物其物と、信じられてゐたのだ。かうした論理の根拠を考へなかつた為、お夏実在説が信じられたのである。念仏衆のさんげ唱導に属する世間信仰の、ひよつくり現れたのだと言ふ事が知れる。
念仏衆が長文のさんげ念仏を語ることは稀になつた。同様に衰へて行つたものに、念仏の狂言がある。此をする地方は、まだ間々あるが。
沖縄では、日本の若衆歌舞妓をまねたものを、若衆《ニセ》(似せともとれる)念仏《ネンブツ》と言うた時代もあつた(伊波普猷氏の話)。あの島へは、念仏聖が早くから渡つてゐる。さうして、其持つて行つた芸道は、稍《やや》長篇の歌、順礼系統の哀れな叙事詩、唱門師関係のことほぎ[#「ことほぎ」に傍線]の詞章、童子訓の様な文句、其他いろ/\残つてゐる。又|京太郎《チヤンダラ》と言ふ人形芝居があつた。柳田国男先生の考へで、念仏者の村は、浄土聖の行者の住みついたものと定つた。いづれにしても浄土の末流に、尠くとも此幾倍かの演芸種目を携へて、琉球まで来たものがあつたのだ。江戸の初期を降らない頃から、或はもつと早くに渡つて居たであらうと考へられる。沖縄の伝説中に、内地の物語と暗合の余り甚しいものゝあるのは、浄土説経の諷誦から来たものだと言ふ事が知れる。尤、袋中《タイチユウ》和尚其他相当な島渡りの浄土僧からも伝へられたらうと言ふ事も考へられないでもない。
念仏聖の中にも、名は念仏を称しても、既に田楽・猿楽の如く、遊芸化した団体を組んだ者もゐたのである。即、たゞの念仏の外に、念仏興行を頼まれゝば、出向いて盂蘭盆・鎮魂・鎮花其他の行儀を行ふ上に、演劇・偶人劇・舞踊・諷誦等雑多の演芸種目を演じる者もあつたのである。室町には、かうした念仏職人の中には、山伏しにあつたと同じく、敗残の土豪等も身を寄せてゐた。或は、山伏し同様、呪力・武力を以て、行く先々の村を荒し、地を奪うて住み著く様になつた芸奴出身の成り上り者もあつたらう。
上州徳川の所領を失うたと言ふ江戸将軍の祖先徳阿弥父子は、遊行派の念仏聖として、方々を流離した末、三河の山間松平に入つて、其処で入り壻となり、土地にありついて、家門繁昌の地盤を築
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