いた。此事などは、念仏其他の興行に、檀那場を廻つてゐた聖・山伏しの小団体の生活の、一つの型を髣髴させる歴史である。
すつぱ[#「すつぱ」に傍線]又、らつぱ[#「らつぱ」に傍線]といひ、すり[#「すり」に傍線]と言ふのも、皆かうした浮浪団体又は、特に其一人をさすのであつた。新左衛門のそろり[#「そろり」に傍線]なども、此類だと言ふ説がある。口前うまく行人をだます者、旅行器具に特徴のあつたあぶれもの[#「あぶれもの」に傍線]、或は文学・艶道の顧問(幇間の前型)と言つた形で名家に出入りする者、或はおしこみ専門の流民団など、色々ある様でも、結局は大抵、社寺の奴隷団体を基礎としたものであつた。かう言ふ仲間に、念仏聖の芸と、今一つ後の演劇の芽生えとなつた伝承が、急に育つて来た。其は、荒事《アラゴト》趣味である。室町末から、大坂へかけての間を、此流行期と見なしてよい。実は古代から、一時的には常に行はれた事の、時世粧として現れて来たのである。
祭りや法会の日に、神人・童子或は官奴の神仏群行に模した仮装行列、即前わたり[#「前わたり」に傍線]・練道《レンダウ》などの扮装が、次第に激しく誇張せられて来た。踏歌|節会《せちゑ》のことほぎ[#「ことほぎ」に傍線]に出る卜部たちや、田楽師等の異装にも、まだ上の上が出て来たのだ。
田楽が盛んになつてから、とりわけ突拍子もない風をする様になつた。田楽師に関係の深い祇園会の、神人・官奴などの渡御の風流などになると、年々殆ど止りが知れぬ程だつた。祇園祭りや祇園ばやしなどが、国々に、益《ますます》盛んになつて行くに連れて、物見の人までが、我も/\と異風をして出かけた。竟《つひ》に、日常の外出にさへ行はれ出した。戦国の若い武士の趣味には叶ふ筈である。大きく、あらつぽくて、華美で、はいから[#「はいから」に傍線]で、性欲的でもあると言うた、目につく服装ばかりに凝つた。此には念仏聖などが殊に流行を煽つた様である。呪師の目を眩す装ひをついだ田楽師、其後を承けた念仏芸人である。
若い武家の無条件で娯《たのし》めるのは、幸若舞であつた。舞役者の若衆の外出の服装や姿態が、変生男子風の優美を標準とした男色の傾向を一変した。
以前、風流《フリウ》と言うた語《ことば》に代る語が、どこの武家の国から現れたものか、戦国頃から流行し出した。かぶく[#「かぶく」に傍線]と言ふ語が其である。此方言らしい語が、新しい、印象的な、壮快で、性的で、近代的である服装や、ふるまひを表すのに、自由な情調を盛り上げた。かぶく[#「かぶく」に傍線]・かぶかう[#「かぶかう」に傍線]・かぶき[#「かぶき」に傍線]など言ふ変化の具つたのも、固定したふりう[#「ふりう」に傍線]よりは自在であつた。
此語が現れてから、かぶきぶり[#「かぶきぶり」に傍線]は段々内容を拡げて行つた。そして、恣《ほしいまま》にかぶき[#「かぶき」に傍線]まくつたのは、唱門師《シヨモジン》及び其中に身を投じた武家たちであつた。彼等は、かぶきぶり[#「かぶきぶり」に傍線]を発揮する為に、盛んに外出をし、歩くにも六方法師の練りぶり[#「練りぶり」に傍線]をまね、後に江戸の丹前ぶりを分化した六方で、道を濶歩して口論・喧嘩のあくたいぶり[#「あくたいぶり」に傍線]や、立ちあひぶり[#「立ちあひぶり」に傍線]に、理想的にかぶかう[#「かぶかう」に傍線]とした。名護屋山三郎の、友人と争うて死んだのも、かうしたかぶき[#「かぶき」に傍線]趣味に殉じたのである。
幸若の様に固定しない念仏の方は、演奏種目を幾らでも増すことが出来た。即かぶき男[#「かぶき男」に傍線]の動作を取り込んで、荒事ぶりを編み出し、念仏踊り及び旧来の神事舞・小唄舞を男舞にしたてゝ、をどり出した。流行語のかぶき[#「かぶき」に傍線]を繰り返して詠じたから、かぶきをどり[#「かぶきをどり」に傍線]の名が、直ちについた。或は、幸若の一派に「かぶき踊り」と言ふものが、既にあつたのかも知れぬ。だが、よく見ると、念仏踊りであつたゞけに、名古屋山三郎の亡霊現れて、お国の踊りを見て、妄執を霽《はら》して去ると言ふのは、やはり供養の形の念仏である。念仏踊りは、田楽の亜流であり、鎮花祭の踊りの末裔であるから、神社にも不都合はなかつた。即、田楽の異風なもので、腰鼓の代りに、叩き鉦を使ふだけが、目につく違ひである。念仏踊りの出来た初めには、古い名の田楽を称してゐたものもあつたらうと思ふ。又、後世まで、念仏でゐて、田楽を称したのもある位だ。
お国の「念仏踊り」は、旧来の物の外に、小唄舞を多くとり込んで発達した。田楽との距離の大きい「念仏踊り」の一つに違ひない。其上、よほど演芸化して、浮世じたてのものが多くなつて居た。

[#5字下げ]六 説経と浄瑠璃と[#「六 説経と浄瑠璃と」は中見出し]

念仏聖の多くは、放髪にして禿《カブロ》に断《キ》つたものである。剃つたものは、法師・陰陽師であつた。だが、禿《カブロ》即、童髪《ワラハガミ》にした「童子《ドウジ》」ばかりであつたわけではない。寺奴にも段階があつて、寺主に候ふ者・剃髪を許された者・寺中に住める者・境外|即《すなはち》門前或は可なり離れた地に置かれて居た者などがある。其最下級の者が、童子村の住民であつた。此階級の人々は、念仏宗の興立と共に、信仰の上にまで、宿因・業報だとばかり、あきらめさせられてゐた従来の教理から解放せられた。だから、高野は勿論、叡山其他寺々の童子は、昔から信仰に束縛のなかつた慣例から、浄土・一向・融通・時衆などに趨《おもむ》いた。
処が、平安末の念仏流行の時勢は、公家・武家にも多くの信者を出したと同時に、寺に居て、寺の宗義を奉じながら、一方新しく開基せられた念仏宗を信じた僧さへ出て来た。洛東|安居院《アグヰ》は、天台竹林院派の道場で著れてゐた。其処に居て、安居院《アグヰ》法師と称せられた聖覚《セイカク》は、天台五派の一流の重位に居ながら、法然上人の法弟となり、浄土宗の法統には、円光大師直門の重要な一人とせられて居る。此人は叡山流の説経伝統から見て大切な人だ。父はやはり説経の中興と言はれた程の澄憲《テウケン》(同じく安居院の法印)であり、信西入道には孫である。澄憲は其兄弟中に四人まで、平家物語の作者だと言はれる人を持つてゐる。さうして桜の命乞ひをした話や、鸚鵡返しの歌で名高い桜町中納言も、其兄弟の一人である。
私は経を読み、又説経する時に、琵琶を使うたのが平安朝の琵琶法師だと考へてゐる。平家物語の弾かれたのが、琵琶の叙事詩脈の伴奏に使はれた初めだとは思はない。其以前に「経を弾いた」事があつたと認められる。澄憲の説経には、歌論義・問答・頓作めいた処が讃へられた様に思はれる。平家物語もある点から見れば、説経である。其上、目前平家の亡んだ様子が、如何にも唱導の題材である。私は源氏物語の作為の動機にも、可なりの分量の唱導意識がある、と考へてゐるのである。
説経の材料は、既に「三宝絵詞」があり、今昔物語があつた。此等は、唱導の目的で集められた逸話集と見るべき処が多い。古くは霊異記、新しくは宝物集・撰集抄・沙石集などの逸話集は、やはり、かうした方面からも見ねばならぬ。かうした説経には、短篇と中篇とがあつて、長篇はなかつた。処が、中篇或は短篇の形式でありながら、長篇式の内容を備へたもの――源氏・平家の両物語は姑《しばら》く措いて――が出来た。其は安居院《アグヰ》(聖覚)作を伝へる「神道集」である。神道と言ふ語は、仏家から出た用語例が、正確に初めらしい。日本の神に関した古伝承をとつて、現世の苦患は、やがて当来の福因になる、と言ふ立場にあるもので、短篇ながら、皆ある人生を思はせる様な書き方のものが多い。巧みな作者とは言へぬが、深い憂ひと慰めとに満ちた書き方である。此は、聖覚作とは言ひにくいとしても、変改記録せられたのは、後小松院の頃だらう。さうして此が説経として、口に上つてゐたのは、もつと早かつたらうと思はれる。
説経はある処まで、白拍子と一つ道を歩んで来た。其間に、早く芸化し、舞踊をとり入れた曲舞・白拍子・延年舞は、実は、皆曲舞の分派である。白拍子・歌論義、其等から科白劇化した連事、其更に発達したのが宴曲である。説経は次第に、かうした声楽をとり込んで来た。
唱導を説経から仮りに区別をすれば、講式の一部分が独立して、其平易化した形をとるものが唱導であつて、法会・供養の際に多く行はれる様になつて居たらしい。其法養の趣旨を述べるのが表白《ヘウビヤク》である。此も唱導と言ふが、中心は此処にない。唯、表白は祭文化、宴曲化し、美辞や警句を陳《つら》ねるので、会衆に喜ばれた。今日の法養の目的によく似た事実を、天・震・日の三国に亘つて演説する。此が、読誦した経の衍儀《えんぎ》でもあり、其経の功徳に与らせる事にもなるのである。唱導の狭義の用例である。其上で形式的に、論義が行はれ、口語で問答もする。
室町以後の説経になると、題材が段々日本化し、国民情趣に叶ひ易くなつたと共に、演説種目が固定して、数が減つて行つた。講座の説経のみならず、祭会に利用せられて、仏神・社寺の本地や縁起を語る事に、讃歎の意義が出て来た。家々で行ふ時は、神寄せ・死霊の形にもなつて来た。此意味の説経は、其物語の部分だけを言ふのである。
琵琶法師にも、平安末からは、言ほぎ[#「言ほぎ」に傍線]や祓への職分が展《ひら》けて来た痕が見える。又寺の講師の説経の物語の部分を流用して、民間に唱導詞章を伝へ、又平易な経や偽経を弾くやうになつた。説経の芸術化は、琵琶法師より始まる。其為、後には寺の説経には伴奏を用ゐず、盲僧の説経には、唱門師としての立場から、祓除の祭文に当る経本を誦した。平家も最初は、扇拍子で語つたと言ふ伝へは、寺方説経の琵琶と分離した痕を示すのだ。
鎌倉室町に亘つて盛んであつた澄憲の伝統|安居院《アグヰ》流よりも、三井寺の定円の伝統が後代説経ぶしの権威となつたのには、訣がある。
澄憲流は早く叡山を離れて、浄土の宗教声楽となり、僧と聖とに伝つたが、肝腎の安居院は、早く氓びて、家元と見るべきものがなくなつた。定円流は其専門家としての盲僧の手で、寺よりも民間に散らばつたらしい。浄土説経は絵ときや、念仏ぶしに近づいて行つたが、三井寺を源流とする盲僧は、寺からは自由であり、平家其他の物語や、詞曲として時好に合ふ義経記や、軍記などの現世物を持つて居た。浄土派の陰惨な因果・流転の物語よりは、好まれるわけで、段々両種の台本を併せて語るやうになつた。其中、神仏の本地転生を語る物を説経と言ひ、現世利益物を浄瑠璃と言ふ様になつたらしいのである。説経・浄瑠璃は、また目あきの芸にもなつて、扇や簓《サヽラ》を用ゐる様にもなつた。
一方盲僧の説経なる軍記類は、同じ陰陽配下の目あきの幸若舞などの影響から素語りの傾向を発達させた。そして物語講釈や、素読みが、何時か軍談のもとを作つて居た。口語りの盛衰記や、かけあひ話の平家や、猿楽の間語《アヒダガタ》りの修羅などが、橋渡しをしたらしい。盛衰記は幸若を経て、素語りを主とする様になり、太平記にも及んだ。此が、戦国失脚のかぶき者[#「かぶき者」に傍線]などに、馴れた幸若ぶし[#「幸若ぶし」に傍線]などで語られて、辻講釈の始めとなつたのである。
釜神の本縁を語り、子持ち山の由来・諏訪本縁を述べたりする説経の、既に、南北朝にある(神道集)のは、平安末の物と違うて来た事を見せ、荒神供養や、産女守護・鎮魂避邪を目的とする盲僧の所為であつたことを見せるのか。
浄土派の説経の異色のあるのは、安居院《アグヰ》流のだからであらう。浄土の念仏聖は此説経を念仏化して、伝道して歩いたらしく思はれる。たとへば、大和物語に出た蘆刈りの件「釜神の事」の様なものである。其が、沖縄の島にさへ伝へられ、奥州地方にも拡つてゐる。
大体、近松の改作・新作の義太夫浄瑠璃の出現は、説経と浄瑠璃との明らかな交迭期を見せてゐる。一体、説経にも旧派のものと、新式の物とがあつて、新
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