式のものは、やがて、近松の出て来る暗示を見せてゐるのであるが、さういふ側が更に「歌説経」に進んだのである。
説経は平家を生み、平家は説経を発達させた。現に、北九州の盲僧|所謂《いはゆる》師の房[#「師の房」に傍線]らの弾くものには、経[#「経」に傍線]があり、説経があり、くづれ[#「くづれ」に傍線]があり、其説経には、重いものとくづれ[#「くづれ」に傍線]に属するものとがある。そして、幸若流の詞曲が重いものとなつてゐる。盲僧の妻は瞽女であるが、盲僧の説経や平家に対して、瞽女は浄瑠璃を語るのが、本来であつたらしい。
説経は本地を説き、人間苦の試錬を説いて、現世利益の方面は、閑却してゐた。其で、薬師如来の功徳を述べる、女の語り物の説経が出来た。女には、正式な説経は許されてゐなかつた為もあらう、浄瑠璃と言ふ様になつた。薬師如来は、浄瑠璃国主だから、幾種もの女説経を、浄瑠璃物語と称する様になつた。
其以前、曾我物語は瞽女の語り物になつてゐた。「十二段草子」は、浄瑠璃として作られた最初の物だとは言はれまい。此草子自身も、新しい改作の痕が見えてゐて、決して初稿の「十二段草子」とは言へなさゝうである。其上「やす田物語」と言ふ浄瑠璃系統のものが、更に古くあつたと言はれてゐる。さすれば、因幡堂薬師の縁起だ。やはり、浄瑠璃の名が、瞽女の演芸種目から、盲僧の手にも移つて行く事になつたのである。薬師の功徳を説かなくても、浄瑠璃は現世式の語り物の名となつた。
かうして段々、説経よりも浄瑠璃の方が、世間に喜ばれる様になつた。浄瑠璃の方が気易いから、三味線も早く採用する事が出来た。門《かど》説経は扇拍子であつても、盲僧の語る説経は、琵琶を離すことが出来なかつたのであらう。段々目あきの演芸人が出来た。説経も台本を改作し、楽器も三味線に替るやうになつた。
かうして、次第に、自然に現実味と描写態度とを加へて来たが、近松になつて徐々に、さうして姑《しば》らくしてから急激に変化し、飛躍して、其後の浄瑠璃は唱導的意義を一切失ふ様になつて了うた。でも、昔のなごりで、宮・寺の法会、追善供養などを当てこんだ作物の出たのは、説経本来の意義が、印象して居た為である。唱導芸術らしい努力が、古い詞章の改作に骨折つた時代にはなくて、却つて自由な態度で囚はれずに書いた作物(心中ものゝ切り[#「切り」に傍点]など)に見えてゐる。現世の苦悩を離れて行く輝かしさを書いたのは、世話物が讃仏乗の理想に叶ひ難いといふ案じからであらう。だが後になる程、陰惨な場合も、わりに平気で書いてゐる。此人の文学観が、変つて来たのである。
さて、説経には三つの主体があつた。大寺の説経師・寺の奴隷階級の半俗僧、今一つは琵琶弾きの盲僧である。そして江戸の説経節へ直ぐな筋を引くものは、最後のものであるが、此を最広く撒布して歩いたのは、童子聖の徒であつて、隠れてはゐるが、芸術的には大きな為事をしてゐる。あみいば[#「あみいば」に傍線]としての努力を積んで、江戸の浄瑠璃の起つて来る地盤を築きあげて居たわけである。
日本文学の一つの癖は、改作を重ねると言ふ事である。私は源氏物語さへも「紫の物語」と言つた、巫女などの唱導らしいものゝ、書き替へから始つたのだと考へてゐる。「うつぼ」などは、鎌倉の物には相違ないが、でも全然偽作ではなく、改作をしながら、書きついで行つたものであらう。住吉物語も信ぜられて居ないが、源氏物語で見れば、ある点、今の住吉物語の筋通りである。さすれば、やはり改作と見る外はない。落窪物語なども、改作によつて平安朝の特色を失うた処もあり、文法も時代にあはなくなつて了うたらしく、偽作ではなくて、やはり書き継ぎ書き加へたものである。こんな風で、説経も其正本が出るまでには、幾度口頭の変改を重ねて来てゐるか知れないのである。


[#3字下げ]戯曲・舞踊詞曲の見渡し[#「戯曲・舞踊詞曲の見渡し」は大見出し]

[#5字下げ]一[#「一」は中見出し]

歌舞妓芝居は、只今ですら、実はまだ、神事芸から離れきつてゐないのである。其発生は既に述べた如くで、久しく地表に現れなかつたからとて、能楽よりも後の発生であり、能楽の変形だなどゝ考へてはならぬ。
江戸の歌舞妓の本筋は、まづ幸若舞で、上方のものは念仏踊りを基礎とした浮世物まね[#「浮世物まね」に傍線]や、組み踊り[#「組み踊り」に傍線]を混へてゐる。
豊臣時代頃から、画にも芝居にも、当世のはいから[#「はいから」に傍線]ぶりをうつす事が行はれて、芝居では殊に、美しい少人がはで[#「はで」に傍線]な異風をして練り歩くと言つた、一種の舞台の上のあるき[#「あるき」に傍線]が喜ばれた。
名護屋山三郎は、浪人でかぶき者[#「かぶき者」に傍線]であつた。其蒲生に仕へたのは、幸若舞などによつて召されて居たらしく、早歌《サウカ》をお国に伝授したらしい。早歌は、表白《ヘウビヤク》と千秋万歳の言ひ立て[#「言ひ立て」に傍線]とから出て、幸若にも伝つてゐるのだ。上方の芝居は、出雲で芸道化したお国の念仏巫女踊りに、幸若の形や、身ぶりを加へたものである。上方では座頭の女太夫を、和尚と言うたらしく、江戸では太夫と呼んでゐたと言ふ。
立役《タチヤク》と称するものゝ元は、狂言方である。此に、大人なのと、少人なのとがある。お国の場合には、少人ではなく、此に当るものは、名護屋山三郎であつた。「若」の意義が拡つて来たのである。江戸の中村勘三郎も其である。大人・少人の狂言方の出るのは王朝末にもある事で、若衆が狂言方に廻つたのが、江戸歌舞妓である。此が猿楽役であつて、狂言方[#「狂言方」に傍線]・わき方[#「わき方」に傍線]を兼ねてゐるのだ。若が勤めたから、猿若と呼ばれたらしい。而も、江戸の女太夫は、幸若の女舞であるから、念仏踊りは勘三郎が行うたらしい。
中村屋勘三の「早《ハヤ》物語」と言ふ琵琶弾きの唄(北越月令)を見ると、此だけのことが訣る。勘三が武蔵足立郡で百姓もして居た事。鳴り物の演芸に達してゐた事。縁もない琵琶の唄に謡はれて居るのは、中村屋と琵琶弾き盲僧との間に、何かの関係があつた事の三つの点である。さうすると、勘三もやはり、一種の唱門師《シヨモジン》で念仏踊りの組合(座)を総べてゐた事と、江戸芝居にも念仏踊りが這入つて居た事とが言へる。さすれば、猿若狂言に使ふ安宅丸の幕の緋房と言ふのは、実は、念仏聖の懸けた鉦鼓の名であり、本の名にまでなつた「金《キン》の揮《サイ》」は、単に念仏聖の持つぬさかけ棒[#「ぬさかけ棒」に傍線]であらうか。

[#5字下げ]二[#「二」は中見出し]

女太夫禁止以後、狂言・脇方の若衆が、幸若風に、して方[#「して方」に傍線]に廻つて、若衆歌舞妓が盛んになつた。若衆の立役が主人役と言ふ感じを与へるまでの機会を作つたのであらう。
念仏踊りと、田楽系統の科白の少い喜劇に飽いた世間は、さうした変成《ヘンゼウ》の男所作と新しい「女ぞめき」のふり[#「ふり」に傍線]を喜んだ事であらう。此は、幸若の「曾我」などを、物まねにうつせば、出て来る事であつて「傾城買ひ」或は「島原狂言」の元であり、更に此に、前述の前わたり[#「前わたり」に傍線]・道行きぶり[#「道行きぶり」に傍線]を加へて来たのである。
歌舞妓の木戸に、後々まで狂言づくし[#「狂言づくし」に傍線]と書き出したのは、能狂言に模したものを幾つも行ふ意ではなかつた。日本の古い演劇が、舞踊・演劇・奇術・歌謡、さうした色々の物を含んでゐた習慣から出た名で、歌舞妓踊りも、狂言も、小唄・やつし唄も、ありだけ見せると言ふ積りであつた。猿楽・舞尽しと言へなかつた為、同じ様に古くからある狂言と言ふ語《ことば》を用ゐたのである。名は能狂言で、其固定した内容を利用したかも知れぬが、能狂言から思ひついたとは言へないのである。農村に発達した、村々特有の筋と演出とを持つた古例の出し物があつたのだ。どこの村・どこの社寺の、どの座ではどれと言ふ風に、二立て目に出す狂言は極《きま》つて居て、狂言も其一種であつたのが、無数に殖えたのである。江戸の猿若で言へば、猿若狂言と定式狂言とが其なのである。後の物は総称して狂言と言ふが、内容は種々になる訣である。
其一つの能狂言が、対話を主として栄えたことを手本にして、改良せられて行つた。此は、能や舞に対しては踊りである。狂言の平民態度に立つてゐるのから見れば、此は武家情趣を持つて居る。但、役者自身歌舞妓者が多かつた為、舞台上の刃傷《にんじやう》や、見物との喧嘩などが多かつた。

[#5字下げ]三[#「三」は中見出し]

江戸の荒事は、金平《キンピラ》浄瑠璃と同じ原因から出たらうが、お互に模倣したものとは言へない。団十郎の初代は、唐犬権兵衛の家にゐたと言ふから、やはり町奴の一人となる資格のあつたかぶき者[#「かぶき者」に傍線]だつたのである。
かぶき[#「かぶき」に傍線]と言ふ語は、又段々、やつこ[#「やつこ」に傍線]と言ふ語に勢力を譲るやうになつた。旗本奴にも、歌舞妓衆と言はれる徒党があつて、六方に当る丹前は、此等の奴ぶり[#「奴ぶり」に傍線]から出た。その、寛濶・だて[#「だて」に傍線]などゝ流行語を易《か》へるに従うて、概念も移つて行つて、遂に「通」と言ふ「色好みの通り者」と言ふ処におちついた。
かぶき者[#「かぶき者」に傍線]は半従半放の主従関係だつたので、世が静まつても、さうした自由を欲する心の、武士の間にあつた事が知れる。だから渡り奉公のやつこ[#「やつこ」に傍線]の生活を羨んで、旗本奴などゝ言ふ名を甘受してゐたのだ。
吉原町・新吉原町に「俄《にはか》狂言」の行はれるのは、女太夫の隔離せられた処だからで、女歌舞妓以来の風なのである。又太夫の名も、舞太夫であるから称へた、歌舞妓の太夫であつたからだ。其名称は、京阪へも遷つた。
ばさら風[#「ばさら風」に傍線]と言ふのは、主として、女のかぶきぶり[#「かぶきぶり」に傍線]で、其今に残つてゐるのは、男の六方に模して踏む「八文字」である。廓語《くるわことば》の、家によつて違ふのも、元はそれ/″\座の組織であつた為、村を中心とする座の相違から来る方言の相違と用語とにも、なるべくばさら[#「ばさら」に傍線]を好んだ時代の風と俤とを残してゐるのである。

[#5字下げ]四[#「四」は中見出し]

江戸発生の舞踊がすべて、をどり[#「をどり」に傍線]と言はれて居るのは、其発生が皆、歌舞妓芝居にあつて、幸若舞系統なることは、絶対に否定せられてゐたからである。其為にをどる[#「をどる」に傍線]と舞ふ[#「舞ふ」に傍線]とは、区別があるにも拘らず、舞に属するものも皆、をどり[#「をどり」に傍線]と称せられる様になつた。
をどり[#「をどり」に傍線]は飛び上る動作で、まひ[#「まひ」に傍線]は旋回運動である。まひ[#「まひ」に傍線]の方は早く芸術的な内容を持つに到つたが、をどり[#「をどり」に傍線]の方は遅れてゐた。
神あそび・神楽《カグラ》なども、古く、をどり[#「をどり」に傍線]とくるふ[#「くるふ」に傍線]との方に傾いてゐた。まひ[#「まひ」に傍線]の動作の極めて早いのがくるふ[#「くるふ」に傍線]である。舞踊の中に、物狂ひ[#「物狂ひ」に傍線]が多く主題となつてゐるのは、此くるひ[#「くるひ」に傍線]を見せる為で、後世の理会から、狂人として乱舞する意を併せ考へたのである。
正舞は「まひ」と称し、雑楽は何楽《ナニガク》と言うた。猿楽・田楽は、雑楽の系統としての名である。がく[#「がく」に傍線]と言ふ名に、社寺の奴隷の演ずる雑楽の感じがあつたのだ。曲舞は社寺の正楽の稍乱れたものだからの名で、此は詞曲にも亘つて言ふ詞とした。舞は曲舞以来、謡ふ方が勝つて居たらしく、動きは甚しくない物となつて来たらしい。もとより此も社寺の大切な行事として、まひ[#「まひ」に傍線]と言はれたのである。

[#5字下げ]五[#「五」は中見出し]

能はわざ[#「わざ」に傍線]即、物まね[#「物まね」に傍
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