線]の義で、態の字を宛てゝゐたのゝ略形である。而も其音たい[#「たい」に傍線]を忘れて、なう[#「なう」に傍線]と言ふに到つた程に、目馴れたのだ。「才《サイ》[#(ノ)]男《ヲ》[#(ノ)]能」などゝ書きつけたのを、伶人たちの習慣から、さいのを[#「さいのを」に傍線]ののを[#「のを」に傍線]を能[#「能」に白丸傍点]と一つに考へ、遂になう[#「なう」に傍線]と言ふに到つたのであらう。わざ[#「わざ」に傍線]は神のふりごと[#「ふりごと」に傍線]であるが、精霊に当る側のをこ[#「をこ」に傍点]な身ぶりを言ふ事になつて来た。其が鎌倉に入ると、全く能となつて、能芸《ナウゲイ》などゝ言ふ様になつた。芸は職人の演ずる「歌舞」としたのだ。能芸とは、物まね舞で、劇的舞踊と言ふ事になるのである。田楽・猿楽に通じて、能と言ふのも、ものまね狂言を主とするものであつたからで、即、劇的舞踊の義である。
ことほぎ[#「ことほぎ」に傍線]は舞よりも、わざ[#「わざ」に傍線]の方ではあるが、宮廷の踏歌や、社寺の曲舞に、反閇《ヘンバイ》の徘徊ぶりが融合して、曲舞の一つとなつた。千秋万歳も、だから舞である。其物語に進んだ物なる幸若も亦《また》舞である。
呪師の方では、舞とも、楽とも言はないで、主に「手」を言ふ。舞踊よりも、奇術に属するものであつたのが、わざ[#「わざ」に傍線]や狂言を含んで来、「手」を「舞ひ方」と解する様になつたのであらう。田楽の前型なのである。
狂言はわざ[#「わざ」に傍線]に伴ふ対話である。わざ[#「わざ」に傍線]は、其古い形は、壬生念仏の様にもの言はぬ物ではあるが、狂言を興がる様になつてからは、わざ[#「わざ」に傍線]をも籠めて狂言と言ふ様になり、能とは段々少し宛《づつ》隔つて行つた。
神遊びに出た舞人は、宮廷の巫女であるが、神楽では、人長は官人で、才の男は元山人の役であつたらしい。つまり神奴である。ことほぎ[#「ことほぎ」に傍線]に出るのも山人の積りだから、やはり神奴である。才芸の徒は雑戸で、其位置は良民より下るが、社寺の伶人は更に下つて、神人・童子であつた。而も、位置高い人の勤める役を、常に代つて奉仕するが故に、身は卑しながら、皆祭会には、重い役目であつた。身は賤しながら楽《ガク》の保持者である。

[#5字下げ]六[#「六」は中見出し]

所属する主家のない流民は、皆社寺の奴隷に数へられた。此徒には、海の神人の後なるくゞつ[#「くゞつ」に傍線]と、山人の流派から出たほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]とが混り合つてゐた。それが海人がほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]になり、山人がくゞつ[#「くゞつ」に傍線]になりして、互に相交つて了うた。此等が唱門師の中心であつた。舞の本流は、此仲間に伝へられたのである。
今一つ、山海の隈々に流離して、山だち[#「山だち」に傍線]・くゞつ[#「くゞつ」に傍線]など言はれた団体の女性は、山姥・傀儡女《クヾツメ》として、細かな区別は段々無くなつたが、前者は舞に長け、後者は諷誦に長じて居た。此等の流民の定住するに到るまで、久しく持ち歩いたうた[#「うた」に傍線]と其叙事詩と呪言とは、幾代かの内に幾度となく、あらゆる地方に、あらゆる文芸の芽生えを植ゑつけた。尤《もつとも》此等の二つの形式を併せ備へてゐる者もあつて、一概に其何れとは極《き》めて了ふことは出来ない。併し、其等の仲間には、常に多くの亡命良民と若干の貴種の人々とを交へて居たのは事実である。
此等の団体を基礎として、徒党を組んだ流民が、王朝末・武家の初めから、戦国の末に到るまで、諸国を窺ひ歩いた。さうして、土地或は勤王の主を得て、大名・小名或は家人・非御家人などの郷士としておちついた。
其位置を得なかつた者や、戦国に職を失うた者は、或は町住みして、部下を家々に住み込ませる人入れ稼業となり、或はかぶき者[#「かぶき者」に傍線]として、自由を誇示して廻つた。併し、いづれも、呪力或は芸道を、一方に持つて居た。かう言ふ人々及び其余流を汲む者の間から、演劇が生れ、戯曲が作られ、舞踊が案出せられ、小説が描かれ始めた。世を経ても、長く残つたのは、放蕩・豪華・暴虐・淫靡の痕跡であつた。
ことに、著しく漸層的に深まつて行つたのは、歌舞妓芝居に於けるかぶき味[#「かぶき味」に傍線]であつた。時代を経て、生活は変つても、淫靡・残虐は、実生活以上に誇張せられて行つた。他の古来の芸人階級は、それ/″\位置を高めて行つても、この俳優連衆ばかりは、江戸期が終つても、未だ細工[#「細工」に傍線]・さんか[#「さんか」に傍線]の徒と等しい賤称と冷遇とを受けて居た。此はかぶき者[#「かぶき者」に傍線]としての、戦国の遺民と言ふので、厭はれ隔離せられた風が変つて、風教を害《そこな》ふ程誘惑力を蓄へて行つた為である。
又、都会に出なかつた者は、呪力を利用して博徒となり、或は芸人として門芸を演じる様になつた。
更に若干の仲間を持つた者になると、山伏しとして、山深い空閑を求めて、村を構へ、修験法印或は陰陽師・神人として、免許を受けて、社寺を基とした村の本家となつた。或は、山人の古来行うてゐる方法に習うて、里の季節々々の神事・仏会に、遥かな山路を下つて、祝言・舞踊などを演じに出る芸人村となつた。
わが国の声楽・舞踊・演劇の為の文学は、皆かうした唱導の徒の間から生れた。自ら生み出したものも、別の階級の作物を借りた者もあるが、広義の唱導の方便を出ないもの、育てられない者は、数へる程しかないのである。

[#5字下げ]七[#「七」は中見出し]

山人の寿詞・海部《アマベ》の鎮詞《イハヒゴト》から、唱門師の舞曲・教化、かぶき[#「かぶき」に傍線]の徒の演劇に到るまで、一貫してゐるものがある。其はいはひ詞[#「いはひ詞」に傍線]の勢力である。われ/\の国の文学はいはひ詞[#「いはひ詞」に傍線]以前は、口を緘《とざ》して語らざるしゞま[#「しゞま」に傍線]のあり様に這入る。此が猿楽其他の「※[#「やまいだれ+惡」、第3水準1−88−58]《ベシミ》の面」の由来である。其が一旦開口すると、止めどなく人に逆ふ饒舌の形が現れた。田楽等の「もどきの面」は、此印象を残したものである。其もどき[#「もどき」に傍線]の姿こそ、我日本文学の源であり、芸術のはじまりであつた。
其以前に、善神ののりと[#「のりと」に傍線]と、若干の物語とがあつた。而も現存するのりと[#「のりと」に傍線]・ものがたり[#「ものがたり」に傍線]は、最初の姿を残してゐるものは、一つもない。其でも、此だけ其発生点を追求する事の出来たのは、日本文学の根柢に常に横たはつて滅びない唱導精神の存する為であつた。
ほかひ[#「ほかひ」に傍線]を携へ、くゞつ[#「くゞつ」に傍線]を提げて、行き/\て又行き行く流民の群れが、鮮やかに目に浮んで、消えようとせぬ。此間に、私は、此文章の綴《トヂ》めをつくる。



底本:「折口信夫全集 1」中央公論社
   1995(平成7)年2月10日初版発行
底本の親本:「古代研究 国文学篇」大岡山書店
   1929(昭和4)年4月25日発行
初出:「日本文学講座 第三・四・一二巻」
   1927(昭和2)年1、2、11月
※底本の題名の下に書かれている「昭和二年一・二・十一月「日本文学講座」第三・四・一二巻」はファイル末の「初出」欄に移しました。
※「踊躍《ユヤク》」と「踴躍《ユヤク》」の混在は底本通りにしました。
入力:野口英司、門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2010年5月18日作成
青空文庫作成ファイル:
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