方法を採つた。魂の征服が遂げられゝば、女も従ひ、敵も降伏する。名のり[#「名のり」に傍線]が其方式である。呪言を唱へかけて争うたのが、段々固定して、家と名とを宣《ノ》る様になつた。さうして、相手の発言を求める形になつた。つぎ[#「つぎ」に傍線]を諷誦して、家系をあかした古代の風習が、単純化して了うたのであらう。
名代部の最初の主のつぎ[#「つぎ」に傍線]には、其人の生れた様から、嫁とり、戦ひ、さうして死に到るあり様まで、色々の事を型通りに伝へて行くであらう。其が、或部分だけ特殊の事情で、ぬけて発達して、何部・何氏・何村の、物語・歌として、もてはやされるものが出来る。其等の歌は、何れも鎮魂に関係あるもの故、内外のほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]に手びろく利用され、撒布せられた。
甘橿《アマカシ》の丘のことのまかとの崎[#「ことのまかとの崎」に傍線]で、氏姓の正偽を糺した事実(允恭紀)は、つぎ[#「つぎ」に傍線]に神秘の呪言的威力を考へて居たからである。其諷誦によつて、偽り枉げてゐる者には、錯誤のある呪言の神が、曲つた呪はれた結果を示すものと信じてゐたのだ。此時の神判は、正統を主張する氏々の人を組み合はせて、かけあひ[#「かけあひ」に傍線]させたものなのだらう。誤つたり、偽つたりして呪言を唱へる者を顕して、直ぐに直日[#(ノ)]神の手に移すのが、まがつみの神[#「まがつみの神」に傍線]元来の職分であつて、誓約《ウケヒ》の場合に、呪言の当否を判つのであつた。更に転じては、誓詞と内心との一致・不一致を見別ける様になつて他のたゞし[#「たゞし」に傍線]の神格を分化した。
ことあげ[#「ことあげ」に傍線]の中にも、前者の系統・種姓を言ふ部分がある。神・精霊等を帰伏させるのに、前者の呪言なるつぎ[#「つぎ」に傍線]を自由にすると言ふ意味もあつたのであらう。
つぎ[#「つぎ」に傍線]も亦、君主・族長の唱へる為事だつた。其を神人に伝達《コトモ》たせたところから、語部の職分となつたのであらう。
神聖なつぎ[#「つぎ」に傍線]の中にも、神授の尊いものと、人の世の附加とが、自ら区別せられて居た。宮廷のひつぎ[#「ひつぎ」に傍線]で言へば、神代の正系の神は、殊に糺されてゐる。紀に一書を列ねた理由である。記の綏靖以降開化までの叙述と、下巻の末のとは、おなじく簡単でありながら、取り扱ひが違うてゐる。
[#3字下げ]賤民の文学[#「賤民の文学」は大見出し]
[#5字下げ]一 海語部芸術の風化[#「一 海語部芸術の風化」は中見出し]
最新しく宮廷に入つた海語部《アマガタリベ》の物語は、諸氏・諸国の物語をとり容れて、此を集成した。
其は種類も多様で、安曇《アヅミ》や海部《アマベ》に関係のない詞章も多かつたことは明らかである。此語部の物語は、在来の物に比べると、曲節も、内容も、副演出も遥かに進歩してゐて、芸術意識も出て来て居たらしく思はれる。朝妻[#(ノ)]手人《テビト》龍麻呂が雑戸を免ぜられて、天語[#(ノ)]連の姓を賜はつた(続紀養老三年)のは、其芸を採用する為であつて、部曲制度の厳重な時代ではあつたが、官命で転職させて、相応した姓を与へたのである。
海部の民は、此列島国に渡来して以来、幾代とも知れぬ移居流離の生活の後、或者はやつと定住した。さうした流民団は、海部伝来の信仰を宣伝する事を本位とする者が出来て来た。海人部《アマベ》の上流子弟で、神祇官に召された者が、海部駈使丁《アマハセヅカヒ》であり、其が卜部にもなつた事は、既に述べた。さうして、護詞《イハヒゴト》をほかひ[#「ほかひ」に傍線]することほぎ[#「ことほぎ」に傍線]の演技と、発想上の習慣とを強調して、当代の嗜好を迎へて行つた。
卜部のする護詞《イハヒゴト》は、平安期では祭文《サイモン》と言ひ、其表出のすべてをことほぎ[#「ことほぎ」に傍線]と称へ替へた。そして、寺々の守護神・羅刹神の来臨する日の祭文は、後期王朝末から現れた。
陰陽道の日本への渡来は古い事で、支那の方士よりも、寧、仏家の行法を藉りて居る部分が多い。宮廷の陰陽道は漢風に近くても、民間のものは、其よりも古く這入つて来て、国民信仰の中に沁みついて居た。だから、神学的(?)にも、或は方式の上にも、仏家及び其系統に近づいた呪禁師《ジユゴンシ》の影響が沁みこんでゐる。貴僧で同時に、陰陽・呪禁に達した者もあつた。第一、仏・道二教の境界は、奈良の盛時にすら明らかでなかつたのである。
斎部の護詞《イハヒゴト》に替つた「卜部祭文」は、儒家の祭文とは別系統であつて、仏家の祭文をなぞつた痕が明らかである。而して、謹厳なるべき寺々の学曹の手になる仏前の祭文にまで影響して行つた。はじめは仏家の名目を学びながら、後には――名も実も――却つて寺固有の祭文様式を変化させた。祭文の名は、陰陽寮と神祇官とに行はれた名である。
寺々の奴隷或は其階級から昇つた候人流の法師或は、下級の大衆なども、寺の為のことほぎ[#「ことほぎ」に傍線]を行ふのに、宮廷の卜部に近い方式をとつた。此は寺奴の中には、多くの亡命神人を含んで居たからである。さうでなくとも、家長の為によごと[#「よごと」に傍線]・いはひ詞[#「いはひ詞」に傍線]をまをす古来の風を寺にも移して、地主神・羅刹神に扮した異風行列で、寺の中に練り込んだのである。
室町の頃になると、芸奴と言ふべき曲舞・田楽・猿楽の徒は、大抵寺と社と両方を主と仰ぎ、或は数个寺・両三社に仕へて、ことほぎ[#「ことほぎ」に傍線]を寺にも社にも行うた。更に在家の名流の保護者の家々にも行ふ様になつた。平安末百年には、かうした者が完全に演芸化し、職業化して行つた。
其初めに出来たのは、多く法師陰陽師の姿になつて了うた唱門師《シヨモジン》(寺の賤奴の声聞身の宛て字)の徒を中心とした千秋万歳《センズマンザイ》であつた。其ことほぎ[#「ことほぎ」に傍線]を軽く見て、演芸を重く見た方の者を曲舞《クセマヒ》と言ふ。寺の雅楽を、ことほぎ[#「ことほぎ」に傍線]の身ぶり[#「身ぶり」に傍線]・神楽のふりごと[#「ふりごと」に傍線]に交へて砕いたもので、正舞に対する曲舞《キヨクブ》の訓読である。
男の曲舞では、室町に興った[#「興った」はママ]「幸若舞」なる一流が最栄えた。此も、叡山の寺奴の喝食の徒の出であるらしい。だから千秋万歳同様の演技を棄てなかつた。江戸になつて、幸若には、昔から舞はなかつたと称して、歌舞妓に傾いた女舞から、自ら遮断しようとした。
女舞は、女曲舞とも、女幸若とも言うた。江戸の吉原町に隔離せられて住み、後には舞及び幸若詞曲に伴ふ劇的舞踊を棄てゝ、太夫と称する遊女になつた。江戸の女歌舞妓の初めの人々が此である。地方の社・寺に仕へて居た者は、男を神事舞太夫、女を曲舞太夫或は舞々《マヒ/\》と称して、男は神人、女房は歌舞妓狂言を専門としたのが多い。
此は、唱門師が、陰陽師となるか、修験となるかの外は、神人の形を採らねばならなくなつた為である。桃井幸若丸を元祖と称する新曲舞も、前述の通り、やはり千秋万歳《センズマンザイ》の一流であつたのだ。
猿楽師になると、社寺何れを本主とするか訣らない程だ。が、社奴の色彩の濃い者で、神楽の定型を芸の基礎として居る。而も、雅楽を伝承した楽戸の末でもあつた。其が、時勢に伴うて、雅楽を棄てゝ、雑楽・曲舞を演じたのだ。何にしても「曲舞」の寺出自なるに対して、多くは社及び神宮寺を仰いだ一流である様である。
其先輩の田楽は、明らかに、呪師《ノロンジ》の後で、呪師の占ひに絡んだ奇術や、演芸に、外来の散楽を採り込んで、神社以前から伝つた民間の舞踊・演芸・道具・様式を多くとり込んでゐる。此は、恐らく、法師・陰陽師の別派で、元は神奴であつたものであらう。さうして演芸期間も、他の者の正月・歳暮なのに対して、五月田植ゑの際に――或は正月農事始めにも――行うた「田舞《タマヒ》」の後である。此「田舞」は散楽と演芸種目も似て居る処から、段々近よつて行つたと見る方がよい。やはり、田畠のことほぎ[#「ことほぎ」に傍線]で、仮装行列を条件として居る。曲舞の叙事詩を、伝来の狂言の側から採り込んで、猿楽の前型となつたわけである。
此外、種々の芸人皆、寺奴・社奴出自でないものはない。其芸人としての表芸には王朝末から鎌倉へかけても、まだことほぎ[#「ことほぎ」に傍線]を立てゝゐた。即|唱門師《シヨモジン》の陰陽師配下についたわけである。此等が悉く卜部系統の者、海語部の後とは言はれないが、戸籍整理や、賦役・課税を避けたりして、寺奴となつたほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]の系統を襲《ツ》ぐものとだけは言はれる。
そして又、ほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]には、卜部となつた者もあり、ならない者もあつたらうし、生活様式を学んだ為に、同じ系統と看做された者もあらうが、海部や、山の神人(山人・山姥など、鬼神化して考へられた)の多かつた事は事実である。
ほかひ人[#「ほかひ人」に傍線]の一方の大きな部分は、其呪法と演芸とで、諸国に乞食の旅をする時、頭に戴いた霊笥《タマケ》に神霊を容れて歩いたらしい。其|霊笥《タマケ》は、ほかひ[#「ほかひ」に傍線](行器)――外居[#「外居」に傍線]・ほかゐ[#「ほかゐ」に傍線]など書くのは、平安中期からの誤り――と言はれて、一般の人の旅行具となる程、彼等は流民生活を続けて居た。手に提げ、担ぎ、或は其に腰うちかけて、祝福するのがほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]の表芸であつた。
[#5字下げ]二 くゞつ[#「くゞつ」に傍線]の民[#「二 くゞつの民」は中見出し]
莎草《ハマスゲ》で編んだ嚢《ふくろ》を持つたからの名だと言ふくゞつ[#「くゞつ」に傍線]の民は、実は平安朝の学者の物好きな合理観から、今におき、大陸・半島或は欧洲に亘る流民と一つ種族の様に見られて居る。が、私は、此ほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]の中に、沢山のくゞつ[#「くゞつ」に傍線]も交つて居ることゝ思ふ。くゞつ[#「くゞつ」に傍線]の名に、宛て字せられる傀儡子の生活と、何処迄も不思議に合うてゐる。彼等は人形を呪言の受けて[#「受けて」に傍線]即、わき[#「わき」に傍線]としたらしい。志賀《シカ》[#(ノ)]島の海部の祭りに出る者は固より、海部の本主となつた八幡神のわき神[#「わき神」に傍線]も、常に偶人である。
室町になつて、淡路・西[#(ノ)]宮の間から、突然に「人形舞」が現れて来た様に見える。が、其長い間を、海部の子孫の流民の芸能の間に潜んで来たものと見るべきである。人形は精霊の代表者であり、或は穢悪の負担者であるから、此を平気に弄ぶまでには、長い時日を要したわけである。
宮廷の神楽は、八幡系統のものであるが、人形だけは採用しなかつた。人間の才《さい》の男《を》があつたからである。だが、社々では、人形か仮面かを使うた処が多い。遂に人形が主神と考へられる様にもなつた。
人形が才の男、即、反抗方《モドキ》に廻るのだから、くゞつ[#「くゞつ」に傍線]本流の演芸では、偶人劇と歌謡とを主としたらしい。だから、舞踊に秀でたものもあつたが、演劇の方面は伸びなかつた。
ほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]は神人でもあり、芸人でもあり、呪禁《ジユゴン》師(※[#「醫」の「酉」に代えて「巫」、第4水準2−78−8])でもあつた。時には呪咀もし、奪掠もした。けれども、後代の意味の乞食者の内容を備へて来たのは、平安朝になつて後の事である。
聖武の朝、行基門徒に限つて、托鉢生活を免してから、得度せないまでも、道心者の階級が認められて来た。其と共に、乞食行法で生計を立てるものは、寺の所属と認められ、ほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]即《すなはち》寺奴の唱門師となつたのであらう。さうでない者は、村に定住して農耕の傍、ほかひ[#「ほかひ」に傍線]をする様になつた。だから、僧形ではなくて、社奴の様な姿をとる事になつたのであらう。
後世、寺社奉行を設けなければならなか
前へ
次へ
全14ページ中9ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング