ことわざ」に傍線]・神事の本縁なる叙事詩を物語つた様子が思はれる。
大祓詞の中、天つ祝詞が秘伝になつて離れてゐるのも其で、元はまづ、天つ祝詞を唱へて演技をなし、その後物語に近い曲節で、大祓の本文を読み、又天つ祝詞に入ると言ふ風になつて居たからで、此祓詞には、天つ祝詞が数个所で唱へられたらしい。其が、前後に宣命風の文句をつけて、宮廷祝詞の形を整へたので、後の陰陽師等の唱へた中臣祓は、此祝詞を長くも短くも誦する様だ。併し、天つ祝詞は伝授せなかつたのである。護詞《イハヒゴト》の中のことわざ[#「ことわざ」に傍線]に近い詞章の本義を忘れて、祝詞の中の真言と感じたのだ。地上の祓への護詞と、真言なる章句とを区別したのである。
呪詞に絡んだ伝来の信仰から、此祓詞を唱へる陰陽師・唱門師の輩は、皆中臣の資格を持つ事になつたらしい。後に此等の大部分と修験の一部に、中臣を避けて、藤原を名のつてゐたものが多い。此は自ら称したと言ふより、世間からさう呼んだのが始まりであらう。呪詞を諷誦する人は、元の発想者或は其伝統者と同一人となると言ふ論理が、敷衍せられて残つたのである。
宮廷の語部は女を本態としてゐるが、他の氏々・国々では、男を語部としてゐるのも多かつた。宮廷でも、物部・葛城・大伴等の族長が、語部類似の事を行ふ事が屡《しばしば》あつた。

[#5字下げ]二 祝言団の歴史[#「二 祝言団の歴史」は中見出し]

語部の能力が、古詞を伝承すると共に、現状や未来をも、透視する方面が考へられて来たらしい。即、語部と其詞章の原発想者との間に、ある区別を考へない為に語部の物語る間に、さうした能力が発揮せられて(神がゝりの原形)新しい物語を更に語り出すものとした。顕宗紀に見えた近江の置目《オキメ》などが、此である。父皇子の墓を告げて以来、大和に居て、神意を物語つて、おきつ[#「おきつ」に傍点]べき事を教へたのであらう。おきめ[#「おきめ」に傍線]はおき女[#「おき女」に傍線]である。予め定めおきつる[#「おきつる」に傍線]のが、おく[#「おく」に傍線]の原義である。日置部《ヒオキベ》のおき[#「おき」に傍線]なども、近い将来の天象、殊に気節交替に就てのおき[#「おき」に傍線]をなし得たからである。後に残すおく[#「おく」に傍線]、残されたおくる[#「おくる」に傍線]も、此展開である。
かうして、呪言・叙事詩系統の詞章の、伝来の正しさを重んずる事の外に、其語り人の神格化を信じて、新しい詞章を請ふ様にもなつたのだ。此が又、宣命・よごと[#「よごと」に傍線]・のりと[#「のりと」に傍線]・いはひごと[#「いはひごと」に傍線]などの新作を、神聖を犯すものとせず、障りなく発達させる内的の第一の動機となつた。
語部は、神がゝりすると言ふより、寧、神自身になつて、古詞章を伝へる内に、段々新聖曲を語り出す様にもなつた。此点にも、呪言と叙事詩との岐れ目がある。呪言では、新詞章の出来たのは、叙事詩よりも遅れてゐる。此には、宣命の新作が、大きな動力になつた。だが、其以前から、発生的に叙事詩と通用して、殆ど同体異貌のものであつたから、変り始めては居た事であらう。
語部の新詞章の語り始められたのは、恐らく、長い飛鳥の都以前からもあつたであらう。尚一面、壬生部の叙事詩が此と絡みあうて、名代部・子代部の新叙事詩を興した事も考へねばならぬ。其は、古い叙事詩を自然に改作し、而も新しい感触を含んだ物語や、歌を数多く入れた身につまされる様なのが出て来た。此名代部・子代部の伝承をある点まで集成したらしいのが、既述の海語部《アマガタリベ》である。
其は宮廷の語部としての、男性本位の団体で、芸術的意味をも含んで、採用せられたものらしい。彼等は民間より出て、宮廷に入つたが、大部分は尚民間を遊行して居た。さうして、生活の間に演奏種目を交換し、数を殖して行つた。都鄙・異族の叙事詩はかうして融通伝播したのである。
彼等は海村の神人として、農村の為に水を給する神に扮し、呪詞・物語・神わざを演出する資格があつた。かうして、ほかひ[#「ほかひ」に傍線]して廻つた結果、ほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]の階級を形づくつた。海語部の外にも、社々・国々の神人の、布教・祝福の旅を続けたらしい者も、挙げることは出来るが、団体運動の歴史や、伝承系統の明らかなのは、此種族である。安曇と言ひ、天・尼・海を冠し、或は海部《カイフ》と言ふ地名の多いのが、現実の証拠である。漁り・潜《カヅ》きの地を尋ねて、住ひを移すと共に、かうしたほかひ[#「ほかひ」に傍線]をして廻つたのであつた。此にも男女の生業の違ひが認められた。此が山の神人としての山人の信仰が現れるまで、又其以後も、海の神人として尊まれ、畏れられ、忌まれもした水上・海道の巡游巫祝の成立であつた。
ほかひ[#「ほかひ」に傍線]・語り・芸能・占ひを兼ねた海の神人たる旅行団が、山神信仰時代に入ると、転じて、山人になつたのも多い。信州の安曇氏は固より、大和の穴師《アナシ》神人などが其だ。伊予の大三島の神人の如きは、海の神人の姿を保ちながら、山の神人の姿に変つて行つたもので、伊豆の三島神人は、其が更に山人化したものである。
叙事詩化した呪詞を伝承して、祝福以外に、一方面を拓いたのが、語部の物語であつた。だから、多少芸術化した叙事詩は、音楽的にも、聴く者の内界へ、自らなる影響を与へた。其上に、此には更に、鎮魂の威力をも考へねばならぬ。其は臣下からは、教育の出来ぬ宮廷・豪家の子弟の魂に、語部の物語の詞章が触れて、薫化するものと考へられてゐた事である。語部は此意味に於て、家庭教師らしい職分を分化して来た。平安の宮廷・豪家で、女房たちが、子女の教師であり、顧問でもあつた遠い源は、こゝに在る。だから、女房たちの手になつた平安の物語類は、読み聴かせる用途から出たのであつた。そして、黙読する物になり、説明から鑑賞に移つて、文学化を遂げた。其外に尚一つ、語部職の分化する大きな理由があつた。其はつぎ[#「つぎ」に傍線]の伝承である。

[#5字下げ]三 系図と名代部と[#「三 系図と名代部と」は中見出し]

つぎ[#「つぎ」に傍線]はよつぎ[#「よつぎ」に傍線]と言ふ形になつて、後代まで残つたものである。意義は転じたが、其でも、原義は失ひきらなかつた。継承次第を主として、其に説明を添へて進むと言つた、書き入れ系図の、自由な姿の口頭伝承である。
平安中期以後のよつぎ[#「よつぎ」に傍線]は、記録せられた歴史をも言ふが、其前は、記載の有無にも拘らずよつぎ[#「よつぎ」に傍線]と言ひ、更に古くは、語根のまゝつぎ[#「つぎ」に傍線]と言うたのである。此を記録し始めた時代からある期間は、つぎぶみ[#「つぎぶみ」に傍線](纂記・譜第)と称へて居た。宮廷のつぎ[#「つぎ」に傍線]は日を修飾にして、ひつぎ[#「ひつぎ」に傍線]と言ふ。日のみ子或は日神の系図の義で、口だて[#「口だて」に傍線]によつて諷誦せられたものである。恐らく、主上或は村君として持たねばならぬ威力の源なる外来魂を継承する信仰から出たものであらう。つぎ[#「つぎ」に傍線]に加へる事をつぎつ[#「つぎつ」に傍線](下二段活用)と言ふ。
極めて古い時代には、主上或は村君は、不滅の人格と考へられて居る。だから、個々の人格の死滅は問題としない。勢《いきほひ》、つぎ[#「つぎ」に傍線]・ひつぎ[#「ひつぎ」に傍線]の観念も発達して居なかつたと見える。信仰の変化から神格と人格との区別が考へられる様になつて、始めてつぎ[#「つぎ」に傍線]が現れたのである。
奈良朝以前のつぎ[#「つぎ」に傍線]は、生の為でなく、死の為のものであつた。つぎ[#「つぎ」に傍線]につぎてられる[#「つぎてられる」に傍点]のは、死が明らかに認められた後であり、生死の別が定まるまでは、鎮魂式を行ひ、氏々・官司奉仕の本縁を唱へて、寿詞を奏する。此を、日本紀などには、後世風の誄《シヌビゴト》と解して書いて居るが、古代はしぬびごと[#「しぬびごと」に傍線]自体が、哀悼の詞章ではなかつた。外来魂が竟《つひ》に還らぬものと定まると、この世の実在でないと言ふ自覚を、死者に起させようとかゝる。死者の内在魂に対して、唱へ聴かす詞章がなくてはならぬ。此がつぎ[#「つぎ」に傍線]であつた。
此つぎ[#「つぎ」に傍線]と、氏々・官司の本事《モトツゴト》(略してこと[#「こと」に傍線]とも言ふ)とを混淆して、一列にしぬびごと[#「しぬびごと」に傍線]と称せられ、又宣命の形式のまゝで、漢文風の発想を国語でするしぬびごと[#「しぬびごと」に傍線]も出来かけた。即、つぎ[#「つぎ」に傍線]は鎮め葬つた上、陵墓の前で諷誦すべきものである。而も、其が夙《はや》くから紊《みだ》れて居た様である。名をつぎてられず[#「つぎてられず」に傍線]に消えて行く事は、死者の魂に、不満と不安とを感じさせるものと考へられ、内在魂を完全に退散させる方便としてのつぎ[#「つぎ」に傍線]の意義も出て来た。
主上・村君等のつぎ[#「つぎ」に傍線]が、次第に氏族の高級巫女なる后妃・妻妾・姉妹・女児を列し、宮廷で言へば、ひつぎのみこ[#「ひつぎのみこ」に傍線]更に継承資格を認められて居た兄弟中の数人を加へる様になつた。さうして更に進んで、多くの皇子女を網羅する様になつて行つたのだと言ふ事が出来る。主上・村君以外は、傍流をつぎて[#「つぎて」に傍点]なかつた時代には、其外の威力優れた人の為には、つぎ[#「つぎ」に傍線]こそなけれ、一つの方法が立てられてゐた。
威力あつて、つぎ[#「つぎ」に傍線]に入らなかつた人の死後、其執念を散ずる方便には、新しい村が立てられた。在来の村に新しい名をつける事もあり、全く新しく村を構へさせる事もあつた。其村々には、必、死者の名、或は住み処などの称への、其人を思ひ出し易い数音を被せて名とした。此が、名代部《ナシロベ》又は子代部の発生である。
後には、つぎ[#「つぎ」に傍線]に入つた人にさへ、名代の村を作る様にもなつた。さうなると、子のない人々も亦、歿後の名を案じて、生前自ら名代部を組織する(一)。愛寵する人(子のない)の為に、死後は固より生前にも名代を与へる様になる(二)。(一)(二)の二つは子代部とも称せられた。
かうして見ると、名代部には荘園の淵源が伺はれるのみならず、古く既に、さうした目的さへ現れてゐたことが訣る。即、村を与へる外に、職業団体としての部曲《カキベ》、珍らしい才技《テワザ》・豊かな生産、村々・氏々から羨まれてゐる職業団体、或は分布区域の広い部曲などを授ける事がある。かうして、名代制度の中に、経済観念が深まつて行つた。
名代部は、国・村の君の上につぎ[#「つぎ」に傍線]のある様に、新しく出来た村なり、団体なりに、其人から始まつた新しいつぎ[#「つぎ」に傍線]を語り伝へさせるのが目的であつた。軽部《カルベ》は木梨[#(ノ)]軽[#(ノ)]太子の為に、葛城部《カツラギベ》は磐[#(ノ)]媛皇后の為に、建部《タケルベ》は倭建命の為に、春日部は春日皇后の為に立てられた名代・子代であつた。皆、美しく、苦しき、猛く、弛《ユル》さぬ、あはれな物語を伝承して居た。
子のない為に作つたのが、名代の原義ではなかつた。だから、其人に子孫のある時は、其地を私用して、一種の村君の生活をした。
つぎ[#「つぎ」に傍線]の第一義的効果は、死霊退散にあつたのだから、後|漸《やうや》く、つぎ[#「つぎ」に傍線]自身呪文の様な威力を持つて来た。即、君主・族長の人格的現実観が、其神格に対する畏敬をのり超えて了ふやうになると、其信仰威力を戻す為に、実証手段として、つぎ[#「つぎ」に傍線]の諷誦が行はれる。最正しい伝統によつて神格を享けてゐる人ゆゑ、其稜威は精霊・魂魄の上に抑圧の威力を発揮する。かうした畏怖を相手方に起させるものと信じた。其が更に、つぎ[#「つぎ」に傍線]を唱へるだけで、呪力が発動するものとの信仰を生んだ。
戦争も求婚も、元は一つ
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