誦法うたふ[#「うたふ」に傍線]からうたひ[#「うたひ」に傍線]と訴へ[#「訴へ」に傍線](うたへ)とが分化して来たのである。
呪言・叙事詩の詞の部分の独立したものがうた[#「うた」に傍線]であると共に、ことわざ[#「ことわざ」に傍線]でもあつた。さうした傾向を作つたのは、呪言・叙事詩の詞が、詞章全体の精粋であり、代表的に効果を現すものと信じて、抜き出して唱へるやうになつた信仰の変化である。だから、うた[#「うた」に傍線]の最初の姿は、神の真言(呪)として信仰せられた事である。此が次第に約《つづま》つて行つて、神人問答の唱和相聞《カケアヒ》の短詩形を固定させて来た。久しい年月は、歌垣の場《ニハ》を中心にして、さうした短いうた[#「うた」に傍線]を育てた。旋頭歌を意識に上らせ、更に新しくは、長歌の末段の五句の、独立傾向のあつたのを併せて、短歌を成立させた。そこに、整頓した短詩形は、遅れて新しく語部の物語に這入つて来る様にもなつた。だが、様式が意識せられるまでは、長歌・片哥・旋頭歌などゝ「組み歌」の姿を持つて居たものと見るべき色々の理由があるのである。奈良朝になつても、うた[#「うた」に傍線]が呪文(大歌などの用途から見て)としての方面を見せてゐるのは、実は呪言が歌謡化したのではなかつた。呪言中の真言なるうた[#「うた」に傍線]の、呪力の信仰が残つてゐたのである。
くり返す様だが、ことわざ[#「ことわざ」に傍線]は、神業(わざ)出の慣例執行語《イヒナラハシ》であり、又物の考慮を促す事情説明の文章なるわざこと[#「わざこと」に傍線]と言ふ処を、古格でことわざ[#「ことわざ」に傍線]と言うたのである。ことわざ[#「ことわざ」に傍線]の用語例転化して後、ふり[#「ふり」に傍線]と言ふ語を以て、うた[#「うた」に傍線]に対せしめた。古代の大歌に、何振(何曲)・何歌の名目が対立して居た理由でもある。此を括めて、歌《ウタ》と言ふ。其旧詞章の固定から、旧来の曲節を失ひさへせずば、替へ文句や、成立の事情の違ふうた[#「うた」に傍線]までも、効果を現すとの信仰が出来る様になつた。追つては古い詞章に、時・処の妥当性を持たせる為の改作を加へる様にもなる。歌垣其他の唱和神事が、次第に、文学動機に接近させ、生活を洗煉させて行つてゐた。創作力の高まつた時代になつて、拗曲・変形から模写・改作と進んで来たうた[#「うた」に傍線]が、自由な創作に移つて行く様になつたのは、尤である。
此種のうた[#「うた」に傍線]は、鎮護詞《イハヒゴト》系統から出たものばかりであつたと言うてよい。殿祭《トノホカヒ》・室寿《ムロホギ》のうた[#「うた」に傍線]は、家讃め・人讃め・※[#「覊」の「馬」に代えて「奇」、第4水準2−88−38]旅・宴遊のうた[#「うた」に傍線]を分化し、鎮魂の側からは、国讃め、妻|覓《マ》ぎ・嬬《つま》偲び・賀寿・挽歌・祈願・起請などに展開した。挽歌の如きも、しぬびごと[#「しぬびごと」に傍線]系統の物ではなく、思慕の意を陳べて、魂を迎寄《コヒヨ》せて、肉身に固著《フラ》しめるふり[#「ふり」に傍線]の変態なのであつた。
歌の中、鎮魂の古式に関係の遠いものは、叙事詩及び其系統に新しく出来た、壬生部《ミブベ》・名代部《ナシロベ》・子代部《コシロベ》の伝へた物語から脱落したものである。又或ものは系譜《ヨツギ》――口立《クチダ》ての――の挿入句などからも出てゐる事が考へられる。
記・紀に見えた大歌は、やはり真言として、のりと[#「のりと」に傍線]に於ける天つのりと[#「天つのりと」に傍線]同様、各種の鎮魂行儀に、威力ある呪文として用ゐられたのがはじまりで、後までも、此意義は薄々ながら失せなかつた。大歌は次第に、声楽としての用途を展開して行つて、尚神事呪法と関係あるものもあり、其根本義から遠のいたものも出来た。記・紀にすら、詞章は伝りながら、既に用ゐられなくなつたもの、わざ[#「わざ」に傍線]・ふり[#「ふり」に傍線]の条件なる動作の忘れられたもの、後代附加のものも含めて居る様だ。だから替へ歌は文言や由来の記憶が錯乱したのや、詞章伝つて所縁不明になつたものも、勿論沢山にある道理だ。鎮魂祭・節折《ヨヲ》り・御神楽共に、元は、鎮魂の目的から出た、呪式の重複した神事である。うた[#「うた」に傍線]に近づいて行つたのは、信仰の変改である。
鎮魂と神楽とは、段々うた[#「うた」に傍線]を主にして行つた上、平安中期以前既に、短歌の形を本意にする様になつて居た。さうした大歌も、必しもすべて宮廷出自の物に限つて居なかつた。他氏のうた[#「うた」に傍線]或は、民間流伝の物までも、其に伴ふ物語又は説話から威力を信じて、採用したのも交つてゐる。
大歌には既に其所属の叙事詩の亡びて、説話によつて其由来の伝へられたものも多かつたらしい。併し、其母体なる物語の尚《なほ》存してゐて、其内から抜き出したものも多い事は、証明出来る。由来の忘られたものは、民間理会によつて適当らしい人・時・境遇を推し宛てゝ、作者や時代を極めてゐる。其為、根本一つに違ひない大歌に、人物や事情の全く違うた両様の説明が起つた。更に其うた[#「うた」に傍線]を二様に包みこんだ別殊の叙事詩があつたりもした。
氏々の呪言・叙事詩の類から游離したうた[#「うた」に傍線]・ことわざ[#「ことわざ」に傍線]のあつた事、並びに、其が大歌や呪文に採用せられたことは明らかである。大抵冒頭の語句を以て名としたふり[#「ふり」に傍線]と称するものは、他氏・他領出自の歌であつた。さうして、其には必、魂ふり[#「魂ふり」に傍線]の舞ぶり[#「舞ぶり」に傍線]を伴ふ。此が「風俗《フゾク》」である。中には、うた[#「うた」に傍線]の形を採りながら、まだ「物語」から独立しきつて居ないばかりか、其曲節すら、物語に近いものがあつたらしい。天語歌《アマガタリウタ》・読歌《ヨミウタ》などが、其である。

[#5字下げ]六 天語と卜部祭文との繋り[#「六 天語と卜部祭文との繋り」は中見出し]

名は神語《カムガタリ》・天語歌《アマガタリウタ》と区別してゐるが、此二つは、出自は一つで、様式も相通じたものである。唯天語歌の方が、幾分壊れた姿でないかと思はれる。而も却つて、神語の方に天語らしい痕跡が多い。
[#ここから2字下げ]
いしたふや あまはせつかひ ことの語り詞《ゴト》も。此者《コヲバ》
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と言ふ形と、其拗曲した、
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ことの語り詞も。こをば
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と言ふのと、
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豊《トヨ》み酒《キ》たてまつらせ
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と乱《ヲサ》めるものと二つある。又此二つが重《かさな》つて、
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豊み酒たてまつらせ。ことの語り詞も。こをば
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となつたのなどがある。此から見ると、酒ほかひ[#「酒ほかひ」に傍線]の真言と、憤怨を鎮める呪文とには、共通の詞章や、曲節の用ゐられた事が考へられる。結婚の遂行は条件として、戦争とおなじく「霊争《モノアラソ》ひ」を要した古代には、名のり[#「名のり」に傍線]・喚《ヨ》ばひ[#「ばひ」に傍線]にすら、憤りを鎮めるうた[#「うた」に傍線]が行はれたのである。
あまはせつかひ[#「あまはせつかひ」に傍線]とは、海部駈使丁《アマハセツカヒ》の義である。神祇官の配下の駈使丁《ハセツカヒ》として召された海部《アマベ》の民を言うたらしい。此等の海部の内、亀卜に達したものが、陰陽寮にも兼務する事になつたものと見える事は、後代の事実から推論せられる。此等の海部駈使丁《アマハセツカヒ》や、其固定した卜部が行うたことほぎ[#「ことほぎ」に傍線]の護詞や、占ひ・祓への詞章などの次第に物語化し――と言ふより一方に傾いたと言ふ方がよい――たものが「海部物語《アマガタリ》」であり、其うた[#「うた」に傍線]の部分が「天語歌」であつたと言へよう。海部駈使丁の聖職が分化して、卜部と天語部とを生じた。天語部を宰領する家族なる故の天語連《アマガタリノムラジ》のかばね[#「かばね」に傍線]まで出来た。
其伝へた詞章の中のある一類は、神語とも伝へたのであらう。神語は天語の中の秘曲を意味するらしく、天語なる事に替りはない。古くすでに「海部物語《アマガタリ》」を「天つ物語」と感じて、神聖観をあま[#「あま」に傍線]の音に感じ、天語と解したのである。其|囃《はや》しとも乱辞《ヲサメ》とも見える文句は、天語連の配下なる海部駈使丁の口誦する天語の中の歌だと言ふ事を保証するものであつた。其が替へ歌の出来るに連れて、必然性を失うて、囃し詞に退化して行つたのである。
天語[#(ノ)]連(或は海語[#(ノ)]連)は斎部氏の支族だとせられてゐる。其から見ても、神祇官の奉仕を経て、独立を認められて来た、卜部関係の語部なる事が知れる。
記・紀・万葉に、安曇《アヅミ》氏や、各種の海部《アマベ》の伝承らしい伝説や歌謡の多いばかりか、其が古代歴史の基礎中に組み込まれてゐるのは、此天語部が、宮廷の語部として採用せられたからである。


[#3字下げ]語部の歴史[#「語部の歴史」は大見出し]

[#5字下げ]一 中臣女の伝承[#「一 中臣女の伝承」は中見出し]

宮廷の語部が、護詞を唱へる聖職から分化したものなのは、猿女[#(ノ)]君の場合に、殊に明らかであつた。其に次いで行はれたらしいのは、中臣系統の物語である。禊ぎ祓へに奉仕した中臣女が「中臣物語」の伝承をも併せ行うたらしい。
男性の中臣の聖職は次第に昇進したが、女性の分担は軽く許りなつて行つた。嬪・夫人にも進むことの出来た御禊奉仕の地位も、其由来は早く忘れられて了うた。加ふるに御禊の間、傍に居て、呪詞を唱へる中臣の職は、さほど重視せられなくなり、「撰善言司」設置以後、宣命化したのりと[#「のりと」に傍線]を宣する様になつた。だから大抵の寿詞・護詞系統の物語は、中臣女の口に移つて行つたものと見てよいことは、傍証もある。
中臣女から出た一派の語部は、中臣[#(ノ)]志斐《シヒ》[#(ノ)]連などであらう。志斐《シヒ》[#(ノ)]連には、男で国史の表面に出てゐるものもある。持統天皇と問答した志斐《シヒ》[#(ノ)]嫗(万葉集巻三)は(しひ[#「しひ」に傍線]に二流あるが)中臣の複姓《コウヂ》の人に違ひはない。此は、男女とも奉仕した家の例に当るのであつて、物部・大伴其他の氏々にもある例である。後に其風を変へたのは猿女で、古くは、男で仕へるものは宇治[#(ノ)]土公《ツチギミ》を名のり、女で勤めるのが、猿女であつたと見る方がよい。男女共同で家をなしたものが、後に女主に圧されて、男も仕へる時は、猿女[#(ノ)]君の資格でする様になつたものである。「猿淡海《サルアフミ》」など言ふのも宇治土公の一族で、九州にゐた者であらう。女でないから、猿だけを称したのである。
其、族人の遊行するものが、すべて族長即、氏の神主の資格(こともち[#「こともち」に傍線]の信仰から)を持ち得た為に、猿丸太夫の名が広く、行はれたものと考へてよい。其諷誦宣布した詞章が行はれ、時代々々の改作を経て、短歌の形に定まつたのは、奈良・平安の間の事であつたらう。さうして其詞章の作者を抽き出して、一人の猿丸太夫と定めたのであらう。柿[#(ノ)]本[#(ノ)]人麻呂なども、さうした方面から作物及びひとまろ[#「ひとまろ」に傍線]の名を見ねばならぬ処がある様に思ふ。
とにかく、伝統古い猿女の男が、最新しい短歌の遊行伶人となつた事を仮説して見るのは、意義がありさうである。鎮魂祭の真言なる短章(ふり)が、或は、かうした方面から、短詩形の普及を早めたことを思ひ浮べさせる。
語部の職掌は、一方かういふ分科もあつた。語部が鎮魂の「歌《ウタ》[#(ノ)]本《モト》」を語る事が見え、又「事[#(ノ)]本」を告《ノ》るなど言ふ事も見えてゐる。うた[#「うた」に傍線]やことわざ[#「
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