て、ものがたり[#「ものがたり」に傍線]と言ふのが叙事詩の古名であつた。さうして、其から脱落した抒情部分がうた[#「うた」に傍線]と言はれた事を、此章の終りに書き添へて置かねばならぬ。

[#5字下げ]二 物語と祝言と[#「二 物語と祝言と」は中見出し]

日本の歌謡史に一貫して、其声楽方面の二つの術語が、久しく大体同じ用語例を保ちながら行はれて居る。かたる[#「かたる」に傍線]とうたふ[#「うたふ」に傍線]とが、其だ。旋律の乏しくて、中身から言へば叙事風な、比較的に言へば長篇の詞章を謡ふのをかたる[#「かたる」に傍線]と言ふ。其反対に、心理律動の激しさから来る旋律豊かな抒情傾向の、大体に短篇な謡ひ物を唱へる事をうたふ[#「うたふ」に傍線]と称して来た。此二つの術語は、どちらが先に出来たかは知れぬが、詞章としてはかたり物[#「かたり物」に傍線]の方が前に生れて居る。其うちから段々うたひ物[#「うたひ物」に傍線]の要素が意識せられる様になつて来て、游離の出来る様な形になり、果ては対立の地位を占める様になつて行つた。
うたふ[#「うたふ」に傍線]はうつたふ[#「うつたふ」に傍線]と同根の語である。訴ふに、訴訟の義よりも、稍広い哀願・愁訴など言ふ用語例がある。始め終りを縷述して、其に伴ふ感情を加へて、理会を求める事に使ふ。此義の分化する前には、神意に依つて判断した古代の裁判に、附随して行はれる行事を示して居た。勿論うたふ[#「うたふ」に傍線]と言ふ形で其を示した。神の了解と同情とに縋る方法で、うけひ[#「うけひ」に傍線](誓約)と言ふ方式の一部分であつたらしい。うたふ[#「うたふ」に傍線]と云ふ語の第一義と、うたふ[#「うたふ」に傍線]行為の意識とが明らかになつたのは、神判制度から発生したのである。うけひ[#「うけひ」に傍線]の形から男女の誓約法が分化して、ちかひ[#「ちかひ」に傍線]と称せられた。
此ちかひ[#「ちかひ」に傍線]の歌が、うけひ[#「うけひ」に傍線]の際のうたへ[#「うたへ」に傍線]の形式を襲いで、抒情詩発生の一つの動機を作り、うたへ[#「うたへ」に傍線]の声楽的な方面を多くとりこんだ為に、うたふ[#「うたふ」に傍線]が声楽の抒情的表出全部を言ふ語となつたものと思ふ。段々うたふ[#「うたふ」に傍線]の語尾変化によつて、うたへ[#「うたへ」に傍線]とうたひ[#「うたひ」に傍線]とを区別する様になつた。従つてうけひ[#「うけひ」に傍線]の場《ニハ》で当人の誦する詞が、うた[#「うた」に傍線]と言ふ語の出発点といふ事になる。尤、うたふ[#「うたふ」に傍線]ことの行為は前からあつたもので、其がうけひ[#「うけひ」に傍線]にうた[#「うた」に傍線]をうたふ[#「うたふ」に傍線]のが、其代表的に発達した形だつたからであらう。全体うた[#「うた」に傍線]と語根を一つにしてゐるらしい語には、悲愁・寃屈《ゑんくつ》・纏綿などの義を含んでゐるのが多い。
後世のくどき[#「くどき」に傍線]と言ふ曲節は此に当るもので、曲舞・謡曲時代から、抒情脈で縷述する部分の術語になつて居た。其が、近世では固定して、抒情的叙事詩の名称になつて、くどき[#「くどき」に傍線]と言へば、愁訴を含んだ卑俗な叙事的恋愛詞曲と言ふ風になつた。発生的には逆行してゐる次第である。一人称で発想せられてゐるが、態度は、三人称に傾いた地の文に対して、やはり叙事式の発想をしながら、くどき[#「くどき」に傍線]式に抒情気分を豊かに持つたものがうた[#「うた」に傍線]と見ればよからう。さうした古代の歌には、聴きてを予想してゐたらうと思はれる様な、対話式の態度が濃く現れて居る。
私は、叙事詩よりも呪言系統の物から、歌の発生の経路を見た方が、本義を捉へ易いと考へるから、一例として、万葉巻十六の「乞食者詠」について説明を試みたい。乞食者は祝言職人である。土地を生業の基礎とせぬすぎはひ人[#「すぎはひ人」に傍線]の中、諸国を流離して、行く先々でくちもらふ[#「くちもらふ」に傍線]生活を続けて居た者は、唯此一種類あつたばかりである。行基門流の乞食者が認められたのは、奈良の盛時に入つてのことである。だから、乞食者とは言ひでふ、仏門の乞士以後の者とは内容が違つてゐる。ほかひ[#「ほかひ」に傍線]によつて口すぎをして、旅行して歩く団体の民を称したのである。
詠は、うた[#「うた」に傍線]と訓みなれて来たけれど、正確な用字例は、舞人の自ら諷誦する詞章である。だから、いはひ[#「いはひ」に傍線]詞《ゴト》を以てほかひ[#「ほかひ」に傍線]して歩いた祝言職人の芸能に、地に謳ふ部分と、科白として謳ふ歌の部分とのあつた事が推定出来る。言ひ換へれば、此歌は劇的舞踊の詞章であつて、別に地謡とも言ふべき呪言のあつた事が、表題の四字から察せられる。
更に本文に入つて説いて行くと、呪言とほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]と、叙事詩と歌との関係が明らかになる。「いとこ汝兄《ナセ》の君《キミ》」と言ふ歌ひ出しは「ものゝふの我がせこが。……」(清寧記)と言つた新室の宴《ウタゲ》の「詠」と一つ様である。又二首共結句に
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……我が身一つに、七重花さく 八重花|栄《ハ》ゆ(?)と、白賞尼《マヲシタヽヘネ》。白賞尼《マヲシタヽヘネ》
……我が目らに、塩塗り給《タ》ぶと、|時(?)賞毛《マヲシタヽヘモ》。時賞毛《マヲシタヽヘモ》
[#ここで字下げ終わり]
とあるのは、寿詞の口癖の文句らしい。「鹿」の方の歌の「耆矣奴吾身一爾……」を橋本進吉氏の訓の様に、おいやつこ[#「おいやつこ」に傍線]と訓むのが正しいとすれば、顕宗帝の歌の結句の
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おしはのみこのやつこ[#「やつこ」に傍線]みすゑ(記)
おとひやつこ[#「やつこ」に傍線]らまぞ。これ(紀)
[#ここで字下げ終わり]
と言ふのに当るもの、此亦《これまた》呪言の型の一つと言はれ、寿詞系統の、忠勤を誓ふ固定した言ひ方と見る事も出来る。
対句の極めて多いのも、調度・食物類の名の畳みかけて述べられてゐる事も、地名の多く出て来るのも、新室の寿詞[#「寿詞」に傍線]系統の常用手法である。建築物の内部に満ちた富みを数へ立て、其出処・産地を述べ、又其一つ一つに寄せて祝言を述べる方法は、後の千秋万歳に到るまでも続いた言ひ立て[#「言ひ立て」に傍線]である。而も二首ながら「あしびきの此|傍《カタ》山の……」と言つて木の事を言ふのは、大殿祭《オホトノホカヒ》や山口祭《ヤマクチマツリ》の祝詞と一筋で、新室祝言の型なる事を明らかに見せて居る。
室寿詞は、いはひ詞[#「いはひ詞」に傍線]の代表形式で、すべての呪言が其型に這入つて発想せられた事実は証明する事が出来る。此二首なども元、農業の害物駆除の呪言から出たのであるが、やはり、室寿詞の定型を履《ふ》んでは居る。農村の煩ひとなる生き物の中、夜な/\里に出て成熟した田畑を根こそげ荒して行く鹿、年によつてはむやみに孵《かへ》つて、苗代田を螫み尽す蟹、かうした苦い経験が、此ほかひ歌[#「ほかひ歌」に傍線]を生み出したのである。元は、鹿や蟹(其効果は他の物にも及ぶ)に誓はす形であつた呪言が、早く芸能化して、鹿・蟹の述懐歌らしい物に変化して行つたのである。即《すなはち》鹿・蟹に対する呪言及び其副演の間に、当の田畑を荒す精霊(鹿・蟹を代表に)に扮した者の誓ふ身ぶりや、覆奏詞《カヘリマヲシ》があつたに違ひない。其部分が発達して、滑稽な詠、をこ[#「をこ」に傍点]な身ぶりに人を絶倒させる様な演芸が成立して居たものと思ふ。二首ながら、夫々《それぞれ》の生き物のからだ[#「からだ」に傍線]の癖を述べたり、愁訴する様を謳うたりして居る。又道行きぶりの所作――王朝末から明らかに見えて、江戸まで続いた劇的舞踊の一要素たる海道下り・景事《ケイゴト》の類の古い型――にかゝりさうな箇所もある。
古代の舞踊に多かつた禽獣の物まねや、人間の醜態を誇張した身ぶり狂言は、大凡《おほよそ》精霊の呪言神に反抗して、屈服に到るまでの動作である。もどき[#「もどき」に傍線]の劇的舞踊なのである。後世ひよ/\舞[#「ひよ/\舞」に傍線]と言はれる鳥名子《トナゴ》舞・侏儒《ヒキウド》の物まね(殊舞と書くのは誤り)なるたつゝまひ[#「たつゝまひ」に傍線]、水に溺れる様を演じる隼人のわざをぎ[#「わざをぎ」に傍線]――海から来る水を司る神、作物を荒す精霊との争ひの記憶が大部分に這入つてゐる――さうしたふりごと[#「ふりごと」に傍線]としての効果は、此二首にも、十分に現れて居る。
鹿・蟹が甘んじて奉仕しようとすると言つた表現は、実は臣従を誓ふ形式から発して来たものと解するがよい。私は此二首を以て、飛鳥朝の末或は藤原朝――飛鳥の地名を広くとつて――の頃に、ほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]の祝言が既に、演劇化してゐた証拠の貴重な例と見る。尚此に関聯して言ひたい事は、呪言の副演の本体は人間であるが、もどき役[#「もどき役」に傍線]に廻る者は、地方によつて違つて居たことを言ひたい。其が人間であつたことも勿論あるが、ある国・ある家の神事に出る精霊役は、人形である事もあり、又鏡・瓢などを顔とした仮りの偶人であつたことも考へてよい根拠が十分にある。
此ほかひ[#「ほかひ」に傍線]の歌の如きは、時代の古いに係らず、其先に尚古い形のあつて、現存の呪言に絶対の古さを持つものゝない事を示して居る。だが同時に、此詠から呪言の中に科白が生じ、其が転じて叙事詩中の抒情部分が成立し、又其独立游離する様になる事の論理を、心に得る事は出来るのである。
私はことほぎ[#「ことほぎ」に傍線]を行ふ者と、物語を伝誦する語部との間に、必しも絶対的な区劃があつたものとは考へない。けれども大体に於て、此だけは言つてもよい様である。叙事詩及び若干のまだ呪力の信ぜられた呪言を綜合して、可なりの体系をなした物の伝承諷誦を主とする職業団体を語部と呼んでよい事、特殊な呪言と呪力とを相承し、其に関聯した副演出を次第に劇化して行つた団体で、さうした動作が清浄な結果を作るものと信頼せられてゐたのが、宮廷では斎部――及び後々の卜部《ウラベ》――国々村々では、ほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]・ことほき[#「ことほき」に傍線](ことほきびと[#「ことほきびと」に傍線]の略語)或は亦斎部とも卜部とも言つた事である。倭宮廷及び社会状態の其と似通うた国々村々の多くでは、此語部・ほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]の職掌範囲が分れてゐた事は実際である。

[#5字下げ]三 語部とほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]と[#「三 語部とほかひゞとと」は中見出し]

私の考へ得た処では、語部の伝統や職掌は、宮廷のものすら一定不変ではなかつた。時代によつて、目的・伝統が変化して居る。家筋の側から言へば、更に幾筋の系統を考へる事も出来さうだが、大凡三つの部曲は明らかに認めてもよい。第一|猿女《サルメ》・第二|中臣女《ナカトミメ》・第三|天語部《アマカタリベ》、此三つの系統の語部である。猿女・中臣女の如きは、恐らくは時を同じくして併立して居たものであらうが、勢力にはそれ/″\交替があつた。天語部は後のわり込みで、猿女・中臣女に替つたものと見る事が出来る。
猿女の統率階級は猿女《サルメ》[#(ノ)]君《キミ》で、伝説の祖先うずめの命[#「うずめの命」に傍線]以来、女戸主を原則とした氏族である。此系統の語部は、まだ呪言と甚しく岐れない時代の叙事詩を諷誦したらしく、主として鎮魂法の為に、鎮魂の来歴を説くを職としたやうである。而も此|天《アマ》[#(ノ)]窟戸《イハト》の物語を中心にした鎮魂の呪言に、其誘因として語られた天つ罪[#「天つ罪」に傍線]及び祓《ハラ》へ・贖《アガナ》ひの起原を説く物語、更に魂戦《モノアラソヒ》の女軍《メイクサ》の由来に関聯した天孫降臨の大事などが、一つの体系に組織だてられて来た。
さうした結果、うずめ[#「うずめ」に
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