[#「まち」に傍線]とは一続きの現象なのである。
まち[#「まち」に傍線]は卜象の事である。亀卜・鹿卜では、灼き出されて罅《ひび》入つた町形《マチカタ》の事だ。町形を請ひ出す手順として、中臣太詔詞を唱へて祓へ浄める。其に連れて卜象も正《マサ》しく顕れて来る。卜部等が亀卜を灼くにも、中臣太詔詞を言ひ祓へ反覆して、町形の出現を待つのであつた。其ため祓への太祝詞の詞霊を、卜象の出るのを護る神と見たのであらう。櫛真智は奇兆《クシマチ》で、卜象其物或は、卜象を出す神であらう。「亀卜祭文」と言ふは、亀卜の亀のした覆奏《カヘリマヲシ》の形式の変形と見るべきもので、此に対しての呪言を求めれば、中臣太詔詞の外はない。亀卜の亀の精霊が、太詔戸[#(ノ)]命では訣《わか》らぬ事である。「亀卜祭文」なども、神祇官の卜部等の唱へ出したものであらう。

[#5字下げ]三 奏詞の発達[#「三 奏詞の発達」は中見出し]

呪言は元、神が精霊に命ずる詞として発生した。自分は優れた神だと言ふ事を示して、其権威を感銘させる物であつた。緘黙《シヾマ》を守る岩・木・草などに開口《カイコウ》させようとしても、物言はぬ時期があつた。其間は、其意志の象徴としてほ[#「ほ」に傍線](又はうら[#「うら」に傍線])を出さしめる。呪言に伴うて精霊が表す神秘な標兆として、秀《ホ》即|末端《ウラ》に露《あらは》れるものゝ意である。
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答へて曰はく「はたすゝきほ[#「ほ」に傍線]に出しわれや、尾田吾田節《ヲタアタフシ》の淡《アハ》の郡に居る神なり」と。(神功紀)
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かうした用語例が転じて、恋ひ心のそぶり顔に露れることを「ほにいでゝ……」と言ふ。うら[#「うら」に傍線]も亦、
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武蔵野に 占《ウラ》へ、象灼《カタヤ》き、まさでにも 告らぬ君が名、うら[#「うら」に傍線]に出にけり(万葉集巻十四)
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など、恋愛の表情に転じた。うら[#「うら」に傍線]は又「……ほ[#「ほ」に傍線]に出にけり」と言うても同じだ。此等のほ[#「ほ」に傍線]・うら[#「うら」に傍線]の第一義は、精霊の意志標兆であるが、呪言に伴ふ処から、意義は転じ易かつた。うら[#「うら」に傍線]がうらふ[#「うらふ」に傍線](卜)・うらなふ[#「うらなふ」に傍線]の語根になつた理由は、呪言の希望が容れられ、又は容れられない場合のうら[#「うら」に傍線]の出方が違ふ処から出る。
此が一転すると誓約《ウケヒ》と言ふ形になる。呪言を発する者に対して、標兆を示す者は幽界の者であつた。両方で諷誦と副演出とを分担して居る訣である。たつて[#「たつて」に傍点]物言ふまいとする精霊を表したのが「※[#「やまいだれ+惡」、第3水準1−88−58]《ベシミ》の面」である。此時が過ぎて精霊が開口しかけると、盛んに人の反対に出る。あまのじやく[#「あまのじやく」に傍線]と称する伝説上の怪物が、其から出て居る。気に逆らふ事ばかりする。口返答はする、からかひかける、横着はする。此が田楽以来あつた役目で、今も「里神楽《サトカグラ》」の面にあるもどき[#「もどき」に傍線]――ひよつとこ[#「ひよつとこ」に傍線]の事で、もどく[#「もどく」に傍線]は、まぜかへし邪魔をし、逆に出るを言ふ――に扮する人の滑稽所作を生んだ。
能楽の方では、古くもどき[#「もどき」に傍線]の名もあるが、専ら狂言として飛躍した。事実は脇役なども、もどき[#「もどき」に傍線]の変態なのであつた。狂言方の勤める「間語《アヒカタ》り」なども、もどき[#「もどき」に傍線]の口まね[#「口まね」に傍線]から出て、神などに扮した人の調子の低いはずの詞を、大きな声でとりつぐ様な役が分化してゐた。其が、あひ語り[#「あひ語り」に傍線]まで伸びて行つたのだ。宮廷神楽の「才《サイ》の男《ヲ》」の「人長」との関係も、神と精霊とから転化して来たのだ。此系統が千秋《センズ》万歳を経て、後世の万歳太夫に対する才蔵にまで、大した変化なく続いた。
又もどき[#「もどき」に傍線]は大人を悩す鋭い子役に変化してもゐる。延年舞以後ある大[#「大」に白丸傍点]・少[#「少」に白丸傍点]の対立で、田楽・能楽にも此要素は含まれて居た。殊に幸若舞系統から出た江戸歌舞妓では大[#「大」に白丸傍点]・少[#「少」に白丸傍点]の舞以外にも、とりわけ「少」の勢力が増して来た。猿若の如きは「少」から出たものである。若衆歌舞妓も其変態であつた。日本の演劇史に、もどき役[#「もどき役」に傍線]の考へを落したものがあつたら、無意味な記録になつて了ふであらう。
天狗・山男或は、四国の山中に居るといふさとり[#「さとり」に傍線]など言ふ怪物は、相手の胸に浮ぶ考へは、一々知つて了ふ。思ひがけなくはね返した竹の輪や、炉火の為に敗亡して了うたと言ふ伝説が数へきれぬほどある。精霊に呪言を悟られぬ様にせねばならない。此をあべこべに唱へかけられると、精霊に征服せられるものと考へたらしい。神武天皇が、道臣[#(ノ)]命にこつそり策を授けて、諷歌倒語で、国中の妖気を掃蕩せしめられたと日本紀にある。悪霊・兇賊が如何に速かに呪言を唱へ返しても、詞どほりの効果しか無かつた。意想外に発言者の予期した暗示のまゝに相手に働きかけて、亡ぼして了うたのである。舌綟り、早口文句などが発達したのも、呪言の効果を精霊に奪はれまい為であつた。
山彦即木霊は、人の声をまねる処から、怖ぢられた。山の鳥や狸などにも、根負けしてかけあひ[#「かけあひ」に傍線]を止めると、災ひを受けると言ふ伝へが多い。呪言の効果が相殺してゐる場合、一つ先に止めると、相手の呪言の禍を蒙らねばならないのだ。
精霊と実際呪言争ひをする時はなかつたとしても、此畏れの印象する場合が多かつた。祭りの中心行事は、神・精霊の両方に扮した人々の呪言争ひが繰り返されるのであつた。国家時代に入つて、呪言から分化した叙事詩から、抒情脈の叙事詩なる短詩形の民謡が行はれる様になると、群行の神を迎へる夜遊びが、邑落によつては、斎庭に於て行はれた。神々に扮した村の神人と、村の巫女たる資格を持つた女たちとが相向き立つて、歌垣の唱和を挑んだ。最初はきまつた呪言や、呪言の断篇のかけあひ[#「かけあひ」に傍線]をしたのに過ぎなかつたのであらうが、類型ながら段々創作気分が動いて来た。此場の唱和に特別の才人でなければ、大抵苦い目を見てゐる。此が呪言争ひの体験である。又外の村人どうし数人づゝ草刈り・山猟などで逢へば(播磨風土記などに例がある)呪言のかけあひ[#「かけあひ」に傍線]が始まる。今も地方によつては、節分の夕方・十四日年越しの宵などに、隣村どうし、子どもなどが地境に出て、型どほり悪たいのかけあひ[#「かけあひ」に傍線]をする処もある。民間伝承には、此通り、呪言唱和の注意せられた印象が残つて居る。文学史と民俗学との交渉する処は大きいと言はねばならぬ。

[#5字下げ]四 奉仕の本縁を説く寿詞[#「四 奉仕の本縁を説く寿詞」は中見出し]

ほく[#「ほく」に傍線]はほかふ[#「ほかふ」に傍線]とも再活し、語尾が替つてほむ[#「ほむ」に傍線]ともなつて居る。又ほさく[#「ほさく」に傍線]と言ふ形もあつた。うらふ[#「うらふ」に傍線]は、夙く一方に意義が傾き過ぎたが、ほく[#「ほく」に傍線]は長く原義に近く留つて居た様に見える。唯恐らくは、ほ[#「ほ」に傍線]の現出するまで祝言を陳べる事かと思ふのに、記・紀・祝詞などの用例は、象徴となる物を手に持ち、或は机に据ゑて、其物の属性を、対象なる人の性質・外形に準《ヨソ》へて言ふか、全く内的には関係なくとも、声音の聯想で、祝言を結びつけて行くかゞ、普通になつて居た。
其中常例として捧げられた物は御富岐《ミホキ》[#(ノ)]玉である。聖寿を護る誓約《ウケヒ》のほ[#「ほ」に傍線]として、宮殿の精霊が出す――実は、斎部の官人が、天子常在の仁寿殿及び浴殿・厠殿の四方に一つ宛懸けるのである――事になつて居たらしい。大殿|祭《ホカヒ》を行ふ日の夜明けに、中臣・斎部の、官人・御巫《ミカムコ》等行列を作つて常用門と言ふべき延政門におとづれて、其処から入つて斎部が祝詞を唱へて廻る。宮殿の精霊に供物を散供して歩くのが、御巫の役だ。此は、呪言の神が宮殿を祝福し、其と同時に聖寿を賀した古風を残して居るのである。玉は、呪言の神の呪言に対して、宮殿の精霊の示したほ[#「ほ」に傍線]なのである。だから大殿祭祝詞の御吹支乃玉《ミフキノタマ》の説明は、後代の合理と言うてよい。斎部の扮する呪言の神は、元別に時々来臨する者のあつたのが、絶えてからの代役で、其すら長い歴史を持つ様になつたのではないかと思ふ。
中臣氏のは其と違つて、水取りの本縁を述べた「中臣[#(ノ)]天[#(ツ)]神[#(ノ)]寿詞《ヨゴト》」を伝へて居た。此は氏々の寿詞の起原とも称すべきもので、尊者から卑者に誓《ウケ》は――信諾を約せ――しめる為の呪言が、卑位から高位に向けて発する第二義の呪言(寿詞)を分化し、――今一つ別の考へも立つ――繁栄させる風を導いた。極めて古い時代には、朝賀の賀正事《ヨゴト》には専ら此を奏上して、神界に君臣の分限が明らかだつた事始めを説いて、其時の如く今も忠勤を抽んでゝ天子に仕へ、其健康を保障しようとする事を誓うた。だから、氏々の人々も、此を各の家の聖職の本縁を代表する物と信じ、等しく拝跪して、其誓約の今も、家々にも現実の効果あるべきを示した。
中臣寿詞以外、氏々の賀正事《ヨゴト》――誄詞《シヌビゴト》も同じ物で、其用途によつて別名をつけたまでゞある。氏々の誄《シヌビゴト》・百官の誄など奏したのも、或期間、魂の生死に弁別がなかつた為だ――にも共通の慣用句であつたらしい「現御神[#(止)]大八洲国所知食[#(須)]大倭根子天皇云々」と言ふ讃詞は、天子の神聖な資格を示す語として、賀正事から、此に対して発達したと思はれる詔旨(公式令)の上にも、転用せられて行つた。氏々の聖職の起原――転じては、臣従の由来――を説く寿詞(賀正事としてが、最初の用途)が、朝賀の折に、数氏の長上者《カミ》等によつて奏上せられる様になつてからは、其根元たる中臣寿詞は、即位式――古くは二回、大嘗祭にも――に奏上せられることに定まつて来たのである。
中臣氏の神のほ[#「ほ」に傍線]は、水であつた。初春の聖水は、復活の威霊の寓りとして、変若水《ヲチミヅ》信仰の起因となつたものである。天子のみ代《ヨ》替りを以て、日《ヒ》の御子《ミコ》の断えざる復活の現象と考へ、其を促す力を水にあるものと見たのである。ほ[#「ほ」に傍線]の原始に近い意義として、古典から推定出来るものは、邑落時代に持つて居た、邑落々々の守護霊――外来威力――の寓りと看做された形ある物及び現象であつた。ほ[#「ほ」に傍線]を提出する事が、守護の威霊を護り渡して、相手の威力・生活力を増させる訣である。ほ[#「ほ」に傍線]を示す即ほく[#「ほく」に傍線]動作が臣従を誓ふ形式になる所以である。
ほく[#「ほく」に傍線]が元、尊者から卑者にする事であつたのは、一方親近者の為に、威霊を分つ義のあつた事からも知れる。天照大神が、おしほみゝの命[#「おしほみゝの命」に傍線]――み子であるが、すめみまの命[#「すめみまの命」に傍線]と言ふ事は、語原及び其起原なる古信仰から見てさしつかへはない――の為に、手に宝鏡を持つて授けて、祝之《ホキテ》曰く、
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此宝鏡を視ること我を視るごとくなるべし。床を同《トモ》にし、殿を共にして斎鏡《イハヒノカヾミ》とすべし。(紀一書)
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と言はれたとも、「鏡劔を捧げ持ち賜ひて、言寿宣《コトホキノリ》たまひしく」(大殿祭祝詞)と言ふ様な伝へもある。此は、「己《オノ》が命《ミコト》の和魂《ニギタマ》を八咫鏡に取り託《ツ》けて」(国造神賀詞)など言ふ信仰に近づいてゐるのだ。威霊を与
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