農村としての生活が目だつて來てからの事と思ふ。春の初めにほかひ[#「ほかひ」に傍線]せられた結果の現じたことに對する謝禮で、ねぎ[#「ねぎ」に傍線]と言ふ用語例に入る行事である。ねぐ[#「ねぐ」に傍線]と言ふ動詞の内容は、單に「勞犒《ネギラ》ふ」にあるとするのでは、半分である。殘部は、新しい努力を願ふ點にある。新しいめぐみ[#「めぐみ」に傍線]を依頼する爲にねぐ[#「ねぐ」に傍線]のであつた。こふ[#「こふ」に傍線]・のむ[#「のむ」に傍線]と違ふ所以である(語根ね[#「ね」に傍線]に就ては、別に言ふことがある)。
刈り上げのねぎ[#「ねぎ」に傍線]には、新しく收めた作物を、まれびと[#「まれびと」に傍線]と共に喰ふ。即、新甞を行ふのである。新甞は此秋のまつり[#「まつり」に傍線]の標準語であらう。さうして、宮廷では自家のまれびと[#「まれびと」に傍線]を饗應することを此語で呼び、地方に對しては「相甞《アヒムベ》」と稱した。相新甞の義である。而も此式は、地方の新甞の爲の豫行の儀であつて、同時に地方の村々に來るまれびと[#「まれびと」に傍線]にとつては、宮廷と地方自體とから、ねぎらはれる[#「ねぎらはれる」に傍線]事になる。其爲、此重複をあひ[#「あひ」に傍線]を以て表したと見るのが一番適當であらう。同じ樣にして、伊勢神宮に對しては「神甞《カムナメ》」と言ふ。神新甞の義だ。此は神宮の最高巫女を神と見て、神どうしの新甞だからと言ふ觀念を含むのである。天照大神は最初の最高巫女だつたと見るべきであるから、天照大神自ら、神に新甞を進め給ふと見るのである。
此等の宮廷竝びに官國幣の神社の儀式は、著しく神學成立後の神道の合理化を受けて居るから、矛盾・重複などを免れない。御歳皇神《ミトシスメガミ》以外に、官國弊社に豐饒を祈り、感謝するのは、神の觀念が變化した爲である。いづれの神にも農産の事に與る能力があると見て居るのである。更に御歳神を以て、純然たる田の神、或は野の精靈と見る方に向つて來たことを示す。野の精靈と國土の神々と相互の協力によつて、生産が完成せられるものと考へて居るのである。
ところが、近世また現今にすら傳承する民間の信仰では、大抵、田の行事のはじまる頃から終る時分まで、山の神[#「山の神」に傍線]が里におりて田の神[#「田の神」に傍線]となると考へて居る。此には誤信を交へては居るが、生産の守護者をば、時あつては外から臨む者とし、常在する精靈と見ない處から出て居る證據である。田の精靈に祈るよりは、まづまれびと[#「まれびと」に傍線]にねぐ[#「ねぐ」に傍線]ことをしたのである。
一二 まれびと[#「まれびと」に傍線]の遠來と群行の思想
既に話した奈良時代の文獻に見えた三種の新甞の夜の信仰は、田の神に對してゞなく、遠來のまれびと[#「まれびと」に傍線]に對してなることは、明らかである。而も序に引いた武塔神の神話も、再、蘇民《ソミン》將來の家に御子神たちを連れて來られることになつて居る。其二度目のおとづれ[#「おとづれ」に傍線]は、秋であつた。春來たまれびと[#「まれびと」に傍線]の秋再おとづれると考へられることになつたのも、古い事である。まれびと[#「まれびと」に傍線]の來るを機會に、新室のほかひ[#「ほかひ」に傍線]をすることは、刈り上げ後にも行はれたと見える。
[#ここから1字下げ]
白髮天皇の二年冬十一月、播磨の國司山部[#(ノ)]連の先祖|伊與《イヨ》[#(ノ)]來目部《クメベ》[#(ノ)]小楯《ヲタテ》、赤石郡に於て、自ら新甞の供物を辨ず。適、縮見《シヾミ》[#(ノ)]屯倉《ミヤケ》[#(ノ)]首《オビト》、新室の縱賞《ホカヒ》して、夜を以て晝に繼ぐに會ふ。(顯宗紀)
[#ここで字下げ終わり]
とあるのは、新甞にも新室が附帶する證據である。允恭紀の七年冬十二月朔日、「新室に讌す」とあるのも、時から見れば新甞の新室である。「新甞屋《ニヒナベヤ》」と言ふのも、別に新甞の物忌みに室を建るのではなく、新室の事を言ふのである。此點誤解し易い爲に、日本紀の舊訓も多少の間違ひをしてゐる。「當に新甞すべき時を見て、則|陰《ヒソ》かに新宮[#「新宮」に白丸傍点]に※[#「尸+矢」、44−12]《クソマ》放る」(神代紀)は、にひみや[#「にひみや」に傍線]或はにひみむろ[#「にひみむろ」に傍線]とでも訓むべきで、強ひてにひなめや[#「にひなめや」に傍線]と言ふに當らないだらう。さうして秋冬のおとづれの時にも、やはり生命健康のほかひ[#「ほかひ」に傍線]をするのである。さすれば、定期のまれびと[#「まれびと」に傍線]は、春も刈り上げにも、おなじことを繰り返すことになる。こゝに自ら時代に前後の區別が見える訣である。
臨時のおとづれ[#「おとづれ」に傍線]は、更に遲れて出來たものであらう。まれびと[#「まれびと」に傍線]によつて、ほかひ[#「ほかひ」に傍線]せられたいと思ふ心の起るべき時に、おとづれ[#「おとづれ」に傍線]する事になる訣だ。建築は今日から見れば、臨時の事らしく見えるが、前に言うた通りで、新造の時は定まつてゐたのである。私の考へる所では、婚禮の時・酒を釀す時・病氣の時の三つが擧げられると思ふ。尚一つ、不意の來臨を加へて考へることが出來よう。
婚禮にまれびと[#「まれびと」に傍線]の來ることは、由來不明の祓へ、竝びに其から出た「水かけ祝ひ」で察せられたであらう。我々の國の文獻は既に、蕃風を先進國に知られるを恥ぢることを知つた時代に出來たのである。だから、殊に婚禮も性欲に關した傳承は見ることが出來ない。唯我が國にも初夜權の行はれたことは事實であるらしい。讃岐三豐郡の海上にある伊吹島では、近年まで其事實があつた。又、三河南北設樂の山中では、結婚の初夜は、夫婦まぐ[#「まぐ」に傍線]ことを禁ぜられて居る。花嫁はともおかた[#「ともおかた」に傍線]と稱する同伴のかいぞへ女と寢ね、「お初穗はえびす[#「えびす」に傍線]樣にあげる」のだと言ふ。沖繩本島では、花婿は式後直に家を去つて、其夜は歸らない。都會では、式に列した友人と共に遊廓に遊ぶと言ふが、此には意味がない。花嫁を率寢《ヰネ》ないことは訣があるのである。
定例のまれびと[#「まれびと」に傍線]の場合を見ると、家の巫女として殘つてゐる主婦・處女はまれびと[#「まれびと」に傍線]の枕席に侍るのである。これが一夜づま[#「一夜づま」に傍線]といふ語の、正當な用語例である。沖繩で花婿が花嫁を率寢《ヰネ》ぬ第一夜の風習は、私は第二次の成女式だと考へてゐる。裳着と袴着とが、女と男と對立的に行はれるのは、實は成年式の準備儀禮であつた。男は成年の後、眞の成年式によつて、神人たる資格と共に、其重要な要素であつたところの性欲行使の解放を意味する標識を、村固有の形でもつて、からだの上にせられる。其が忘れられた後まで、若い衆入りには、性意識の訓練と、自在な發表とを與へられもし、行ひもした。
女の方でも、裳着以後も、眞の成女と認められるまでは、私にも公にも結婚は出來なかつた。女の側の破戒は、多くは男の力に由るのであるから、成女以前の女――後には月事のはじまり、又は、はぢひげの調ひを以てする――を犯した者は、穢れに觸れるのである。宗教的に見れば、重大な罪科である。我が國にも此例はあつて、今も尚信じて居る地方はある。村の神が巫女として、性生活に入る事を認め許した成女の資格をまだ持たない者が、未成女である。たとひ身は成熟してゐても。女の側にかゝつたたぶう[#「たぶう」に傍線]を犯すからと言ふのではなく、男の方の資格に疵が出來るからである。神として(神人として)村の祭りに與る者は、成女即巫女として神にあふ資格ある者以外に觸れてはならないのである。成女式は、村の宗教の權威者の試みを經る事であつた。我が國古代では地方の神主(最高の神職)たる國造等が、とり行うた痕が見える(此は別に述べる)。而も其外にも、村の神人たる若者が、神としての資格で、此式を擧げることもあらう。
此第二次、或は本式の成女式が結婚の第一夜に行はれる事は、邑落生活の樣式が固定した爲であらう。成年式同樣に、きまりの年齡に達した女の、神主からの認められ樣は、結婚以前に受けて居たのを、原則とする事が出來よう。村の男の妻どひの形は、神の資格に於て、夜の闇の中に行はれた。顏も見せないで家々の娘とあふ形は、通ふ神の風が神話化した後迄も、承け繼がれた。だから、女の方の成年式は早く廢れて、痕跡を初夜權に殘し、村の繁殖の爲の身體の試驗・性教練としての合理的の意味を持つ事になつたのであらう。其以前に、祭りの夜のまれびと[#「まれびと」に傍線]のひと夜づま[#「ひと夜づま」に傍線]の形で卒へられたのが、事實に於ける成女式であつた。
婚禮の夜は、新しい嬬屋《ツマヤ》が新夫婦の爲に開かれ、新しい床に魂が鎭められねばならぬのだから、神の來訪を待つことは考へられる。其爲に、新夫婦に科する「水祝ひ」なる祓へは、飛鳥朝にも既に行はれて居た。其頃から既に幾分含んでゐた村人のほふかいな[#「ほふかいな」に傍線]嫉妬表示の固定したものではない。まれびと[#「まれびと」に傍線]を迎へる當の責任者を祓へ、二人の常在所となるべき處を清めるのである。此も元は、水をかける若者が、神の資格に於てしたことゝ思はれる。
其上に家の巫女として、處女又は主婦が對すると言ふまれびと[#「まれびと」に傍線]迎への式がまじり合うて、新嬬屋の第一夜が、夫の「床避《トコサ》り」の風を生じたものであらう。床さる・片さるなど言ふ語は、元かうして出來たものらしいが、用例は多く變じて居る。此風は、古くは、全國的に行はれて居たものであらう。唯、地方的に固いしゞま[#「しゞま」に傍線]が守られて、其風が氓びて了うたものと思ふ。
時としては、既に巫女の生活をしてゐる村の娘が「神」の手を離れて「人間」の男にゆくと言ふ考へから、神になごりを惜む形式を行ひ、神の怒りを避けようとすることもある。此も後に言はうが、稍、遲れた世の解釋である。村の娘全體巫女であつた時代が過ぎてからのことであらう。故らに迎へる臨時のまれびと[#「まれびと」に傍線]の他の例は「酒釀《サカカ》み」の場合である。我が國の奈良朝までの文獻で見ると、平時にも酒を娯しむ風は大陸文明によつて解放せられた上流の、宗教生活を忘れかけて來た階級の消閑の飮料とする風から擴つたものと見ることが出來る。單に飮み嗜む爲の「酒釀《サカカ》み」行事は、民間にはなかつた樣である。此にも常例のものはないではない。村の祭りに先立つて、神の爲に釀して、神人たちの恍惚を誘ふ爲にした。が多くの場合、人の生命に不安を感じる時、行ふ儀式がさかほかひ[#「さかほかひ」に傍線]であつた。酒の出來ぐあひを以て、生死を占ふのである。
此一轉化したものが、粥占である。旅行者の身の上を案ずる場合にも、此方法で問うた樣である。病氣には、其酒をくしのかみ[#「くしのかみ」に傍線]として飮ませ、旅行者無事に歸つた時は此を酌んで賀した。さうした酒宴を酒ほかひ[#「酒ほかひ」に傍線]と言ふのだと考へる人もある樣であるが、釀酒の初めに行はれる式を言ふ事は疑はれぬ。此式は占ひの方に傾いた爲に、後には神の意志は、象徴として表され、本體は來臨せぬものゝ樣に見えるが、
[#ここから1字下げ]
このみ酒《キ》は、わがみ酒《キ》ならず。酒《クシ》の神、常世にいます、石《イハ》立たす少名御神の、神壽《カムホ》ぎ壽《ホ》ぎ狂ほし、豐壽《トヨホ》ぎ壽ぎ※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]《モトホ》し、獻《マツ》り來しみ酒《キ》ぞ。涸《アサ》ず飮《ヲ》せ。ささ(仲哀記)
[#ここで字下げ終わり]
など言ふところから見ると、常世の神が來て、ほかひ[#「ほかひ」に傍線]するものと信じ、其樣子を學んで、若者が刀を振り※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]し、又は或種の神人が酒甕の※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]りを踊りま
前へ
次へ
全10ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング