翁の系統であるが、二體とするのも、段々ある。まや[#「まや」に傍線]の神・ともまや[#「ともまや」に傍線]・赤また[#「赤また」に傍線]・黒また[#「黒また」に傍線]・大主前[#「大主前」に傍点]・あつぱあ[#「あつぱあ」に傍線]の如きは、陰陽の觀念がある樣である。現今も考へてゐる年神の中には、地方によつては一體のもあるが、老夫婦二體の者として居るのも多い。柳田先生はまた、盂蘭盆に「とも御聖靈《オシヤウリヤウ》」として聖靈以外の未完成のものを祀ると言ふ風習もあるから、みたまの飯[#「みたまの飯」に傍線]として、月の數だけを握つてあげるのは、眷屬たちにまで與へるものと解して居られるらしい。先に言うた樣に、餅同樣これは靈魂の象徴である。殊に、三河南設樂郡地方では、正月、寺から笹の葉に米をくるんでおたまさま[#「おたまさま」に傍線]と稱へてくれる(早川孝太郎氏報告)例などを見ると、愈、供物でなかつたことが察せられる。
さすれば、にう木[#「にう木」に傍線]或は鬼打木《オニウチギ》と稱する正月特有の立て物に、木炭で月の數だけの筋をつけるのが、全國的の風俗であることも、起原は此と一つなのではあるまいか。此を古今集三木傳のをがたまの木[#「をがたまの木」に傍線]の正體だとする説は、容易に肯定出來ないとしても、をがたま[#「をがたま」に傍線]と言ふ名義を考へると、此木の用途が古今傳授の有名な木に結びつく理由だけは訣る。靈《タマ》は言ふまでもないが、をが[#「をが」に傍線]は「招《ヲ》ぎ」と關係あるものと見たに違ひない。さすれば、にう木[#「にう木」に傍線]にまれびと[#「まれびと」に傍線]を迎へる意の含まれて居ることは推せられる。其上に、此にう木[#「にう木」に傍線]に飯・粥等を載せて供へるのも、供物ではなく、靈代だつたと見れば納得出來る。
おめでたごと[#「おめでたごと」に傍線]に、必、鯖《サバ》を持參した例も、恐らくさば[#「さば」に傍線]の同音聯想から出た誤りではあるまいか。さば[#「さば」に傍線]は「産飯」と宛て字はするが、やはり語原不明の古語で、お初穗と同義のものらしい。打ち撒きの米にのみ專ら言ふのは、後世の事らしい。さば[#「さば」に傍線]は、他物の精靈の餌と言ふ考へで撒かれるのであるが、尚古くは、やはり靈代ではなかつたであらうか。とにもかくにも、靈代としての米のさば[#「さば」に傍線]が、進物と考へられる樣になつて、鯖と變じたものではあるまいか。元來、米をよね[#「よね」に傍線]と言ふのは稻と同根であらうが、神饌としての米をくま[#「くま」に傍線]と稱する(くましね[#「くましね」に傍線]の樣に)ことは、こめ[#「こめ」に傍線]の原形であらうし、其上、靈魂との關係を思はせる用例がある。供物から溯源して見た春のまれびと[#「まれびと」に傍線]は、主體及び其餘の群衆を考へて居たこともあるのは明らかである。
此等の神は、恐らく沖繩のまれびと[#「まれびと」に傍線]と同樣、村を祝福し、家の堅固を祝福し、家人の健康を祝福し、生産を祝福し、今年行ふべき樣々の注意教訓を與へたものであらう。民間傳承を通じて見れば、悉く其要素を具へて居るが、書物の上で明らかに言ふ事の出來る個處は、家長の健康・建築物の堅固・生産の豐饒の祝福が主になつてゐた樣である事は後に述べる。奈良朝の史書も、やはり村人の生活よりも村君・國造の生活を述べるのに急であつた爲に、まれびと[#「まれびと」に傍線]の爲事の細目は傳へなかつたのであろう。而も、外來である事の證據の到底あげられない所の、古くして且、地方生活を固く結合した民間傳承の含む不明の原義を探ると、まれびと[#「まれびと」に傍線]の行動の微細な點までも考へることが出來るのである。
一一 精靈の誓約
まれびと[#「まれびと」に傍線]は、呪言を以てほかひ[#「ほかひ」に傍線]をすると共に、土地の精靈に誓言を迫つた。更に家屋によつて生ずる禍ひを防ぐ爲に、稜威に滿ちた力足を蹈んだ。其によつて地靈を抑壓しようとしたのだ。平安朝に於て陰陽道の擡頭と共に興り、武家の時代に威力を信ぜられることの深かつた「反閇《ヘンバイ》」は、實は支那渡來の方式ではなかつた。在來の傳承が、道教將來の方術の形式を取りこんだものに過ぎなかつたのだ。一部の「反閇《ヘンバイ》考」は、反閇《ヘンバイ》の支那傳來説を述べようとして、結局、漢土に原由のないものなることを證明した結果に達して居る。字面すら支那の文獻にないものであるとすれば、我が國固有の方術を言ふ所の、元來の日本語であつたのであらう。字は「反拜」などゝ書くのを見ても、支那式に見えて、實は據り處ない宛て字なることが知れる。まれびと[#「まれびと」に傍線]の力強い歩みは、自ら土地の精靈を慴伏させるのであつた。
天子出御の時、發する警蹕の聲は、平安朝では「をし/\」と呼ぶ慣ひであつた。後に、將軍に「ほうほう」、諸侯に「下に/\」を使ふ樣になつた事も事實だ。「ほう/\」は鳥獸を追ふ聲で、人拂ひをするのではなく、此語も古いのであるから、地靈を逐ふ意があつたものであらう。「をし/\」は、天子のこゝに臨ませ給ふ事を示す語であるから、逐ふつもりではあるまい。寧、天子を思ひ浮べさせる歴史的内容を持つた語なのであらう。神武天皇、倭に入られて、兄磯城《エシキ》・弟磯城《オトシキ》に服從を慂めにやられる處に、
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時に烏、其營に到りて鳴きて曰はく、「天つ神の子汝を召す。いざわ/\」と。兄磯城忿りて曰はく、天《アメ》[#(ノ)]壓神《オシカミ》至ると聞きて、吾慨憤する時……。次に、弟磯城の宅に到り……。時に、弟磯城、※[#「りっしんべん+「僕」のつくり」、39−12]然として容を改めて曰はく、臣天[#(ノ)]壓神至ると聞き……。(神武紀戊午年)
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とあるのは、をし[#「をし」に傍線]・おし[#「おし」に傍線]假名遣ひの違ひはあるが、同系の語ではなからうか。「をし/\」と警蹕を寫したのは、必しも發音を糺したものとも思へないし、第一其頃、既にお[#「お」に傍線]・を[#「を」に傍線]の音韻の混同がはじまつてゐるのである。壓《オシ》はおそはく[#「おそはく」に傍線]・うしはく[#「うしはく」に傍線]の義の「壓す」から出たものでなく、また「大《オホシ》」に通ずる忍《オシ》・押《オシ》などで宛て字するおし[#「おし」に傍線]とも違ふ樣だ。來臨する神と言ふ程の古語ではなからうか。おしがみ[#「おしがみ」に傍線]なる故に「をし/\」と警めるのか、「をし/\」と警めて精靈を逐ふが常の神なる故におしがみ[#「おしがみ」に傍線]と言ふのか、いづれとも説けるが、脈絡のない語ではあるまい。
三河北設樂郡一般に行ふ、正月の「花祭り」と稱する、まれびと[#「まれびと」に傍線]來臨の状を演ずる神樂類似の扮裝行列には、さかきさま[#「さかきさま」に傍線]と稱する鬼形の者が家々を訪れて、家人をうつ俯しに臥させて、其上を躍り越え、家の中で「へんべをふむ」と言ふ。へんべ[#「へんべ」に傍線]は言ふ迄もなく反閇《ヘンバイ》である。此も春のまれびと[#「まれびと」に傍線]の屋敷を踏み鎭める行儀である。陰陽師配下の千秋《センズ》萬歳は固より、其流なる萬歳舞も反閇《ヘンバイ》から胚胎せられてゐるのである。千秋萬歳と通じた點のある幸若舞の太夫も反閇《ヘンバイ》を行ふ。三番叟にも「舞ふ」と言ふよりは、寧「ふむ」と言うて居るのは、其原意を明らかに見せて居るのである。
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新室を蹈靜子が手玉鳴らすも。玉の如照りたる君を、内にとまをせ(萬葉集卷十一旋頭歌)
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最初の五字の訓はまだ決定して居ないが、踏んで鎭むる子の意に違ひなからう。さすれば、ふむしづめ子[#「ふむしづめ子」に傍線]・ふみしづめ子[#「ふみしづめ子」に傍線]など言ふよりは、ふみしづむ[#「ふみしづむ」に傍線](しづむるの意。古い連體形)子[#「子」に傍線]と訓じてよからう。手玉を纒いた人が、新室の内の精靈を踏み鎭めて居る樣である。
新室《ニヒムロ》のほかひ[#「ほかひ」に傍線]について言うて置かねばならぬ事は、其が臨時のものか、定例として定期に行うたものかと言ふ事である。新室と言へば、新しく建築成つた時を言ふと思はれるが、事實はさう簡單な事ではなかつた。
宮中の大殿祭は、一年に數囘あつて、神と天子とにへ[#「にへ」に傍線]を共にし給ふ時の前提條件として、必、行はれることになつて居た。大殿祭によつて淨められた殿舍において、恆例の儀式が始まる訣である。だが、此祭り自體が「祓《ハラ》へ」ではなくて、ほかひ[#「ほかひ」に傍線]であつた。祓へは勿論、ほかひ[#「ほかひ」に傍線]から分化した作法なのは明らかであるが、大殿祭の場合、祓へを主體と見る事は出來ない。後世こそ「神人相甞」の儀が主となつて、大殿祭は獨立した祭りとは思はれない姿をとつて居るが、以前は二者一續きの行事か、或は寧、殿ほかひ[#「殿ほかひ」に傍線]の方が主部をなし、にへ[#「にへ」に傍線]の方は附屬部の方であつたかも知れない。まれびと[#「まれびと」に傍線]を迎へる爲の洒掃と考へるのは、まれびと[#「まれびと」に傍線]の本義をとり違へて居る。ほかひ[#「ほかひ」に傍線]の結果、祓への效力を生じさせるのは、まれびと[#「まれびと」に傍線]の威力である。後には專ら、さう解釋して、神を迎へる用意として執り行ふことになつた樣だが、本來の姿は、自ら分たれねばならぬ。
奈良朝の文獻をすかして見る古代の新室のほかひ[#「ほかひ」に傍線]は、必しも嚴格に、新築の建物を對象としては居ない樣である。其が、舊室《フルムロ》をほかふ[#「ほかふ」に傍線]場合も屡ある樣である。舊室に對しても、新室《ニヒムロ》と呼ぶことの出來た理由があるのだと思ふ。半永住的の建て物を造り出す樣になつた前に、毎年、新室を拵へた時代があることが推せられる。屋は苫であり、壁は竪薦《タツゴモ》であつた。我々の國の文獻から溯れる限りの祖先生活には、岩窟住居の痕は見えない。唯一種――後世には形を止めなくなつた――の神社建築形式に、岩窟を利用するものがあつたゞけである。が、むろ[#「むろ」に傍線]と言ふ語は、尠くとも穴を意味するものである。底と周壁とに堅固な地盤を擇んだことだけは證明が出來る。穴が段々淺くなつて、屋外に比べては屋内が掘り凹められてゐる冬期の作業場として、寒國の農村で毎年新しく作るむろ[#「むろ」に傍線]・あなぐら[#「あなぐら」に傍線]の形に進んで居たのが、我が國文獻時代の地方に尚存したむろ[#「むろ」に傍線]であらう。牀をかいたものは、此と對立でとの[#「との」に傍線]と言はれた。だから、むろ[#「むろ」に傍線]・との[#「との」に傍線]の混同はないはずである。新室と言ひでふ、苫を編み替へ、竪薦を吊り易へ、常は生きみ靈[#「生きみ靈」に傍線]の止る處なる寢處《トコ》を掃ふ位で新室になるのであらう。屋内各部の精靈がやゝ勢力を持ちかけるのを防ぐ爲に、此樣に一新するのである。だから、新室づくりの日は生きみ靈[#「生きみ靈」に傍線]を鎭める必要がある。而も其が、徹頭徹尾、建て物と關聯して居る處から、新室のほかひ[#「新室のほかひ」に傍線]と言へば、必、家人殊に家長の生命健康を祝福することになつたのである。同時に土地の精靈は固より、屋内各部の精靈に動搖せぬことを、誓約的に承諾せしめて置く必要があるのである。むろ[#「むろ」に傍線]式の住宅が段々との[#「との」に傍線]に替つて來ると、新室と言ふ語のままに、或は大殿など言ふ語を冠したほかひ[#「ほかひ」に傍線]となる。眞の意味の新室でなく、舊建物のまゝほかひ[#「ほかひ」に傍線]を繰りかへす。だから、ほかひ[#「ほかひ」に傍線]とは言へ、祓《ハラ》への要素が勝つて來る訣である。
定期のものとして、次に生じたのは、恐らく「刈り上げ祭り」であらう。此は
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