國文學の發生(第三稿)
まれびと[#「まれびと」に傍線]の意義
折口信夫

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)椀子《マリコ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)祖|麻呂子《マロコ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]る

 [#(…)]:訓点送り仮名
 (例)椀子《マリコ》[#(ノ)]皇子

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ほと/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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      一 客[#「客」に傍線]とまれびと[#「まれびと」に傍線]と

客をまれびと[#「まれびと」に傍線]と訓ずることは、我が國に文獻の始まつた最初からの事である。從來の語原説では「稀に來る人」の意義から、珍客の意を含んで、まれびと[#「まれびと」に傍線]と言うたものとし、其音韻變化が、まらひと[#「まらひと」に傍線]・まらうど[#「まらうど」に傍線]となつたものと考へて來てゐる。形成の上から言へば、確かに正しい。けれども、内容――古代人の持つてゐた用語例――は、此語原の含蓄を擴げて見なくては、釋かれないものがある。
我が國の古代、まれ[#「まれ」に傍線]の用語例には、「稀」又は「rare」の如く、半否定は含まれては居なかつた。江戸期の戲作類にすら、まれ男[#「まれ男」に傍線]など言ふ用法はあるのに、當時の學者既に「珍客」の意と見て、一種の誇張修辭と感じて居た。
うづ[#「うづ」に傍線]は尊貴であつて、珍重せられるものゝ義を含む語根であるが、まれ[#「まれ」に傍線]は數量・度數に於て、更に少いことを示す同義語である。單に少いばかりでなく、唯一・孤獨などの義が第一のものではあるまいか。「あだなりと名にこそたてれ、櫻花、年にまれ[#「まれ」に傍線]なる人も待ちけり(古今集)」など言ふ表現は、平安初期の創意ではあるまい。
まれびと[#「まれびと」に傍線]の内容の弛んで居た時代に拘らず、此まれ[#「まれ」に傍線]には「唯一」と「尊重」との意義が見えてゐる。「年に」と言ふ語がある爲に、此まれ[#「まれ」に傍線]は、つきつめた範圍に狹められて、一囘きりの意になるのである。此「年にまれ[#「まれ」に傍線]なり」と言ふ句は、文章上の慣用句を利用したものと見てさしつかへはない樣である。
上代皇族の名に、まろ[#「まろ」に傍線]・まり[#「まり」に傍線]などついたものゝあるのは、まれ[#「まれ」に傍線]とおなじく、尊・珍の名義を含んでゐるのかと思ふ。繼體天皇の皇子で、倭媛の腹に椀子《マリコ》[#(ノ)]皇子があり、欽明天皇の皇子にも椀子《マリコ》[#(ノ)]皇子がある。又、用明天皇の皇子にも當麻公の祖|麻呂子《マロコ》[#(ノ)]皇子がある(以上日本紀)。而も繼體天皇は皇太子|勾《マガリ》[#(ノ)]大兄を呼んで「朕が子|麻呂古《マロコ》」と言うて居られる(紀)。此から考へると、子に對して親しみと尊敬とを持つて呼ぶ、まれ[#「まれ」に傍線]系統の語であつたのが、固有名詞化したものであることが考へられる。まれびと[#「まれびと」に傍線]も珍客などを言ふよりは、一時的の光來者の義を主にして居るのが古いのである。
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くすり師は常のもあれど、珍《マラ》人の新《イマ》のくすり師 たふとかりけり。珍《メグ》しかりけり(佛足石の歌)
[#ここで字下げ終わり]
つね[#「つね」に傍線]は、普通・通常などを意味するものと見るよりも、此場合は、常住、或は不斷の義で、新奇の一時的渡來者の對立として用ゐられてゐるのである。まら[#「まら」に傍線]は、まれ[#「まれ」に傍線]の形容屈折である。尊・珍・新などの聯想を伴ふ語であつたことは、此歌によく現れてゐる。
まれ[#「まれ」に傍線]と言ふ語の溯れる限りの古い意義に於て、最少の度數の出現又は訪問を示すものであつた事は言はれる。ひと[#「ひと」に傍線]と言ふ語も、人間の意味に固定する前は、神及び繼承者の義があつたらしい。其側から見れば、まれひと[#「まれひと」に傍線]は來訪する神と言ふことになる。ひと[#「ひと」に傍線]に就て今一段推測し易い考へは、人にして神なるものを表すことがあつたとするのである。人の扮した神なるが故にひと[#「ひと」に傍線]と稱したとするのである。
私は此章で、まれびと[#「まれびと」に傍線]は古くは、神を斥《サ》す語であつて、とこよ[#「とこよ」に傍線]から時を定めて來り訪ふことがあると思はれて居たことを説かうとするのである。幸にして、此神を迎へる儀禮が、民間傳承となつて、賓客をあしらふ方式を胎んで來た次第まで説き及ぼすことが出來れば、望外の欣びである。
てつとりばやく、私の考へるまれびと[#「まれびと」に傍線]の原の姿を言へば、神であつた。第一義に於ては古代の村々に、海のあなたから時あつて來り臨んで、其村人どもの生活を幸福にして還る靈物を意味して居た。
まれびと[#「まれびと」に傍線]が神であつた時代を溯つて考へる爲に、平安朝以後、近世に到る賓客饗應の風習を追憶して見ようと思ふ。第一に、近世「客《キヤク》」なる語が濫用せられて、其訓なるまれびと[#「まれびと」に傍線]の内容をさへ、極めてありふれたものに變化させて來たことを思はねばならぬ。大正の今日にも到る處の田舍では、ゐろり[#「ゐろり」に傍線]の縁の正座なるよこざ[#「よこざ」に傍線](横座)を主人の座とし、其次に位する脇の側を「客座《キヤクザ》」と稱へて居る。此は客を重んじ慣れた都會の人々には、會得のいかぬことである。併し田舍屋の日常生活に訪ふものと言へば、近隣の同格或は以下の人たちばかりである。若したま[#「たま」に傍点]に同等以上の客の來た時には、主人は、横座を其客に讓るのが常である。だから、第二位の座に客は坐るものと考へられたことは、農村の家々に、眞の賓客と稱してよい者の、容易には來るものでなかつた事を示して居る。
正當に賓客と稱すべき貴人の光來の榮に接することになつたのは、凡、武家時代以後、次第に盛んになつたことゝ觀察せられる。武家は、久しい地方生活によつて、親方・子方の感情が、極めて緻密であつた。中央には、傳承が作法を生んで、久しい後までも、わりあひ自由に親密を露すことが出來た。其で、武家が勢力を獲た頃になると、中央であつたら大事件と目せられねばならない樣な臣家訪問の事實が、急に目につき出したのである。下尅上の恐怖が感じられる樣になると、懷柔の手段と言ふ意味も含められて、愈流行した。其結果、賓客と連帶して來たまれびと[#「まれびと」に傍線]なる語は、到底、上代から傳へた内容を持ちこたへることが出來なくなつたのである。六國史を見ても、さうである。天子の臣家に臨まれた史實は、數へる程しかない。公式と非公式とでは違ふであらうが、内容にも屡あり得べきことではなかつた。
上官下僚の關係で見ても、さうだ。非公式には多少の往來を交して居さうな人々の間にも、公式となると、こと/″\しい形式を履まねばならぬことになつてゐた。「大臣大饗」は、此適切な例である。新しく右大臣に任ぜられた人が、先輩なる現左大臣を正客として、他の公卿を招く饗宴であるが、此は公家生活の上に於ける非常に重大な行事とせられて居た。だから、正客なる左大臣の一擧一動は、滿座の公卿の注視の的となつた。新大臣にとつては、單に次には自分の行はねばならぬ儀式の手本を見とつて置く爲の目的から、故らに行うたやうな形があつた。先輩大臣は、其だけに故實を糺して、先例を遺して置かうと言ふ氣ぐみを持つてゐた。

      二 門入り

凡、大饗と名のつく饗宴には、すべて此正客をば「尊者」と稱へて居た。壽・徳・福を備へた長老を「尊者」と言ふと説明して來て居るが、違ふ樣である。私は此には二とほりの考へを持つて居る。一つはまれびと[#「まれびと」に傍線]の直譯とするのである。今一つは寺院生活の用語を應用したものと見るのである。食堂《ジキダウ》の正席は必、空座なのが常である。此は、尊者の座席として、あけて置くのである。尊者は、賓頭盧《ビンヅル》尊者の略號なのである。だから、食事を主とする饗宴の正客を尊者と稱すると考へるのも、不自然な想像ではない樣である。尊者の來臨に當つて、まづ喧ましいのは門入り[#「門入り」に傍線]の儀式である。次に設けの席に就くと、列座の衆の拍手するのが、本式だつた樣である。饗膳にも亦特殊な爲來《シキタ》りがあつた。此中、支那風・佛教風の饗宴樣式をとり除いて考へて行きたい。
奈良朝の記録には、神護景雲元年八月乙酉、參河國に慶雲が現れたので、西宮寢殿に、僧六百人を招いて齋を設けた。
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是の日、緇侶の進退、復法門の趣なし。手を拍つて歡喜すること、もはら俗人に同じ。(續紀)
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とある。此拍手が純國風であつたことは、延暦十八年朝賀の樣の記述を見ても察せられる。
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文武官九品以上、蕃客等、各位に陪す。四拜を減じて再拜と爲し、拍手せず。渤海國の使あるを以てなり。(日本後紀)
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とあるのは、天子を禮拜することの、極めて鄭重であつた國風を、蠻風と見られまいとして、恥ぢて避けたのである。だが、此も亦宴式に臨んだ正客を拜した古風の存して居たのである。手を拍つ事は、酒宴の興に乘つて拍子をとり、囃すものと思はれて來たが、後世の宴會の風から測つた誤解である。正客即尊者は拜むべきものであつた。其故、手を拍つて拜したのである。
二つの引用文は天子に關したものであるが、拍手禮拜の儀は、天子に限らない。うたげ[#「うたげ」に傍線]は「拍ち上げ」の融合なることは、まづ疑ひはない。併し、宴はじまつて後の手拍子を斥《サ》すのでなく、宴に先だつての禮拜を言ふ語であつたのである。其が饗宴全體を現し、遂には饗宴の主要部と考へられる樣になつた酒宴を示す樣に移つて來たものと思はれる。後に言ふ朝覲行幸・おめでたごと[#「おめでたごと」に傍線]と同じ系統の壻入りをうちゃげ[#「うちゃげ」に傍線](宛て字|宇茶下《ウチヤゲ》)と美濃國で稱へてゐたと言ふのは、疑ひもなく拍上《ウタ》げである。併し、壻入りの宴會を斥《サ》すものでなく、壻が舅を禮拜する義から出てゐるのは疑ひがない。
後世、饗宴の風、其宴席の爲に正客を設け、名望ある長老を迎へる事を誇りとする樣になつたが、古代には尊者の爲の饗宴であつて、饗宴の爲の正客ではなかつたのである。だから、尊者は、饗宴の唯一の對象であり、中心であつた。他の列座の客人・宴席の飾り物・食膳の樣子・酒席の餘興などの起原に就ては、自ら説明する機會があるであらう。
尊者の「門入り」の今一つ古い式は、平安の宮廷に遺つて居た。大殿祭の日の明け方、神人たち群行《グンギヤウ》して延政門に訪れ、門の開かれるを待つて、宮廷の巫女なる御巫《ミカムコ》等を隨へて、主上日常起居の殿舍を祓うて※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]るのであつた。此神人――中臣・齋部の官人を尊者と稱することはせなかつたけれど、祓へをすました後、事に與つた人々は、それ/″\饗應せられて別れる定めであつた。かくて貴族の家々に中門《チユウモン》の構造が必須條件となり、中門廊に宿直人《トノヰビト》を置いて、主人の居處を守ることになる。平安中期以後の家屋は皆此樣式で、極めて尊い訪客は、中門から車を牽き入れて、寢殿の階に轅を卸すことが許されて居た。武家の時代になると、中門が塀重門と名稱・構造を變へて來たが、尚、普通には、母屋の前庭に出る門を中門《チユウモン》と稱へて來た。
田樂師《デンガクシ》の演奏種目の中、古くからあつて、今に傳へて居る重要な「中門口《チユウモングチ》」と言ふのは、此「門入り」の儀の藝術化したものなのであつた。田樂法
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