師と千秋萬歳法師との間には、どちらから影響したか問題であるが、類似が澤山ある。服裝・舞ひぶりは勿論だが、此「中門口」に到つては、殊に著しい。後世風に考へれば、「中門口」は寧、千秋萬歳の方に屬するものと見える。併し、單に門《カド》ぼめ[#「ぼめ」に傍線]を「中門口《チユウモングチ》」の主體と見ることは出來ぬ。くち[#「くち」に傍線]を、今も「語り」の意に使うてゐる所から見ると、「中門口」の動作と言ふよりも、中門での語りを意味すると見る方が、聊かでも眞實に近い樣だ。ともかくも、尊者系統の訪れ人が、中門におとなふ[#「おとなふ」に傍線]民間傳承から出たものに相違はないと思ふ。此が門ぼめ[#「門ぼめ」に傍線]の形式に移つて行つたので、寧、庭中・屋内のほめ[#「ほめ」に傍線]の儀が重んぜられて居たものと見るべきである。何故、此樣に「門入り」の式を問題にしたものであらうか。奈良朝或は其以前に溯つても、實際の民俗にも、其傳説化した物語にも、同樣の風のあつたのがありありと見られる。
[#ここから1字下げ]
にほどりの葛飾早稻《カツシカワセ》をにへ[#「にへ」に傍線]すとも、彼《ソ》の可愛《カナ》しきを外《ト》に立てめやも
誰《タレ》ぞ。此家の戸《ト》押《オソ》ふる。にふなみ[#「にふなみ」に傍線]に、我が夫《セ》を行《ヤ》りて、齋《イハ》ふ此戸を
[#ここで字下げ終わり]
此二首の東歌(萬葉集卷十四)は、東國の「刈り上げ祭り」の夜の樣を傳へてゐるのである。にへ[#「にへ」に傍線]は神及び神なる人の天子の食物の總稱なる「贄《ニヘ》」と一つ語であつて、刈り上げの穀物を供《クウ》ずる所作をこめて表す方に分化してゐる。此行事に關した物忌みが、にへのいみ[#「にへのいみ」に傍線]、即にふなみ[#「にふなみ」に傍線]・にひなめ[#「にひなめ」に傍線]と稱せられて、新甞と言ふ民間語原説を古くから持つて居る。此宛て字を信じるとすれば、なめ[#「なめ」に傍線]といふ語の含蓄は、極めて深いものとせなければならぬ。
大甞《オホムベ》は大新甞、相甞《アヒムベ》は相新甞で、なめ[#「なめ」に傍線]が獨立して居ないことは、おほなめ[#「おほなめ」に傍線]・あひなめ[#「あひなめ」に傍線]と正確に發音した文獻のないことからも知れる。鳥取地方には、今も「刈り上げ祝ひ」の若衆の宴をにへ[#「にへ」に傍線]と稱へて居る。羽前庄内邊で「にはない行《ギヤウ》(?)」と言ふのは、新甞の牲《ニヘ》と見るより寧、にへなみ[#「にへなみ」に傍線]の方に近い。にへ[#「にへ」に傍線]する夜の物忌みに、家人は出拂うて、特定の女だけが殘つて居る。處女であることも、主婦であることもあつたであらう。家人の外に避けて居るのは、神の來訪あるが爲である。
此等の民謠は、新甞の夜の民間傳承が信仰的色彩を失ひ始めた頃に、民謠特有の戀愛情趣にとりなして、其樣子を潤色したのである。來訪者を懸想人としたのは、民謠なるが爲であるに過ぎないが、かうしたおとづれ人[#「おとづれ人」に傍線]を豫期する心は、深い傳承に根ざして居たのである。かうした夜の眞のおとづれ人[#「おとづれ人」に傍線]は誰か。其は刈り上げの供を享ける神である。其神に扮した神人である。
「戸おそふる」と言ひ、「外《ト》に立つ」と謠うたのは、戸を叩いて其來訪を告げた印象が、深く記憶せられて居たからである。とふ[#「とふ」に傍線]はこたふ[#「こたふ」に傍線]の對で、言ひかける[#「言ひかける」に傍線]であり、たづぬ[#「たづぬ」に傍線]はさぐる[#「さぐる」に傍線]を原義として居る。人の家を訪問する義を持つた語としては、おとなふ[#「おとなふ」に傍線]・おとづる[#「おとづる」に傍線]がある。音を語根とした「音を立てる」を本義とする語が、戸の音にばかり聯想が偏倚して、訪問する義を持つ樣になつたのは、長い民間傳承を背景に持つて居たからである。祭りの夜に神の來て、ほと/\[#「ほと/\」に傍点]と叩くおとなひ[#「おとなひ」に傍線]に、豐かな期待を下に抱きながら、恐怖と畏敬とに縮みあがつた邑落幾代の生活が、産んだ語であつた。だから、訪問する義の語自體が、神を外にして出來なかつたことが知れるのである。新甞の夜に神のおとづれ[#「おとづれ」に傍線]を聽いた證據は、歌に止まらないで、東の古物語にも殘つて居た。母神(御祖神《ミオヤガミ》)が地上に降つたのは、偶然にも新甞の夜であつた。姉は、人を拒む夜の故に、母を宿さなかつた。妹は、母には替へられぬと、物忌みの夜にも拘らずとめることにした(常陸風土記)。物語の半分は「しんどれら型」にとり込まれて居るが、前半は民間傳承が民譚化したものである。新甞の夜に來る神が、一方に分離して、御祖神の形をとることになつたのだ。
おなじく神の來る夜の民俗は、武塔《フタフ》神を拒み、或は宿した巨旦《コタン》將來・蘇民《ソミン》將來の民譚(備後風土記逸文)をも生んで居る。此は新甞の夜とは傳へて居ない。事實、刈り上げ祭り以外にも、神の來臨はあつたのである。此武塔神の場合に、御子《ミコ》神を隨へて居られるのは注意せねばならぬ。此神をすさのをの命[#「すさのをの命」に傍線]と同じ神とする見解も古くからあるが、此は日本紀の一書に似た型の神話を止めて居るからであらう。命、高天原を逐はれた時に長雨が降つて居た。青草を以て簑笠として、宿を衆神に乞うたが、罪ある故にとめる者がなかつた。其以來、簑笠を著て他人の家に入り、又、束草を背負うて這入ることを諱んだ。犯す者には祓へを課したのが、奈良朝の現行民俗であつた。此神話は、武塔神の件との似よりから觀ると、やはり神來訪の民俗の神話化したものに違ひない。

      三 簑笠の信仰

而も尚一つ、簑笠に關する禁忌の起原を説く點である。私の考へる所では、簑笠を著て家に入つたからとて、祓へを課する訣はない。孝徳朝に民間に行はれた祓へを見ても、家を涜し村を穢したものとする樣々な口實を以てして、科料を課して居る樣子が見える。だから、束草などは説明の途のつかない間は、姑く家を汚すものと見ることも出來るが、簑笠を着てづゝ[#「づゝ」に傍点]と這入ることは、別途の説明をすることが出來る。婚禮の水祝ひも、實は孝徳紀によると、祓へから出發して居るのである。巫女と婚する形式になるところから婚前に祓ふべきを、事後に行うたのである。
此と同じで、簑笠を著たまゝで、他家の中に入るのは特定のおとづれ人[#「おとづれ人」に傍線]に限る事であるのに、其を犯したから祓ふのである。が此は、一段の變化を經て居る。祓へをして簑笠を着たおとづれ人[#「おとづれ人」に傍線]を待つ風があつたのを、其條件に叶はぬ人の闖入に對して、逆に此方法をとつたものである。決して農村生活に文化式施設を試みようとの考へから出たのではない。簑笠は、後世農人の常用品と專ら考へられて居るが、古代人にとつては、一つの變相服裝でもある。笠を頂き簑を纏ふ事が、人格を離れて神格に入る手段であつたと見るべき痕跡がある。
神武紀戊午の年九月の條に、敵の邑落を幾つも通らねば行けぬ天[#(ノ)]香山《カグヤマ》の埴土を盜みに遣るのに、椎根津彦《シヒネツヒコ》に弊れた衣に簑笠を著せて、老爺に爲立て、弟猾《オトウカシ》に箕を被かせて、老媼の姿に扮せしめたことが出て居る。此は二段の合理化を經た書き方で、簑笠で身を隱すと言ふより、姿が豹變するものとした考へ、第二に二人が夫婦神の姿に扮した――と言ふよりも、夫婦のおとづれ人[#「おとづれ人」に傍線]の姿の印象が、此傳説を形づくつたと見る方が正しい――ので、神の服裝には簑笠が必須條件になつて居たことを示すものである。
此事は、尚ほ[#「ほ」に傍線]及びうら[#「うら」に傍線]の條に詳しく解説をする。隱れ簑・隱れ笠は、正確には外來のものではない。在り來りの信仰に、佛教傳來の空想の、隱形の帽衣の觀念をとりこんで發達させたまでゞある。人間の姿がなくなつて、神と替るといふことゝ、人間の姿を隱すと言ふことゝだけの違ひに過ぎない。
又、笠神の形態及び信仰の由來する所も、其大部分は、此おとづれ人[#「おとづれ人」に傍線]の姿から出てゐるものと見られる。今も民間信仰に、田の神或は其系統の社の神の、簑笠を著けたのが多いのは、理由のあることである。遠い國から旅をして來る神なるが故に、風雨・潮水を凌ぐ爲の約束的の服裝だと考へられ、それから簑笠を神のしるしとする樣になり、此を著ることが神格を得る所以だと思ふ樣になつたのである。簑笠で表された神と、襲《オスヒ》・※[#「ころもへん+畢」、第4水準2−88−32]《チハヤ》を以て示された神との、二種の信仰對象があつて、次第に前者は神祕の色彩を薄めて來たものと思はれる。神社・邸内神は後者で表されたものである。後には、簑よりも笠を主な目じるしとする樣になつて行つた。此は然るべきことで、顏を蓋ふといふ方にばかり、注意が傾いて行つたので、神事と笠との關係は、極めて深いものであつた。
大晦日・節分・小正月・立春などに、農村の家々を訪れた樣々のまれびと[#「まれびと」に傍線]は、皆、簑笠姿を原則として居た。夜の暗闇まぎれに來て、家の門から直にひき還す者が、此服裝を略する事になり、漸く神としての資格を忘れる樣になつたのである。近世に於ては、春・冬の交替に當つておとづれる者を、神だと知らなくなつて了うた。或地方では一種の妖怪と感じ、又或地方では祝言を唱へる人間としか考へなくなつた。其にも二通りあつて、一つは、若い衆でなければ、子ども仲間の年中行事の一部と見た。他は、專門の祝言職に任せると言ふ形をとるに到つた。さうして、祝言職の固定して、神人として最下級に位する樣に考へられてから、乞食者なる階級を生じることになつた。
[#ここから2字下げ]
     ┌妖怪
おとづれ人┤
     └祝言職――乞食
[#ここで字下げ終わり]
だから、かういふ風に變化推移した痕が見られるのである。門におとづれて更に屋内に入りこむ者、門前から還る者、そして其形態・爲事が雜多に分化してしまうたが、結局、門前での儀が重大な意義を持つて居たことだけは窺はれる。此樣に各戸訪問が、門前で其目的を達する風に考へられたものもあり、又、家の内部深く入りこまねばならぬものとせられたのもある。古代には家の内に入る者が多く、近世にも其形が遺つて居るが、門口から引き返す者程、卑しく見られて居た樣である。つまりは、單に形式を學ぶだけだといふ處から出るのであらう。

      四 初春のまれびと[#「まれびと」に傍線]

乞食者はすべて、門藝人の過程を經て居ることは、前に述べた。歳暮に近づくと、來む春のめでたからむことを豫言に來る類の神人・藝人・乞食者のいづれにも屬する者が來る。「鹿島のことふれ」が※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]り、次いで節季候《セキゾロ》・正月さし[#「正月さし」に傍線]が來る。「正月さし」は神事舞太夫の爲事で、ことふれ[#「ことふれ」に傍線]は鹿島の神人だと稱した者なのだ。
此中、節季候《セキゾロ》は、それ等より形式の自由なだけ、古いものと言はれる。其姿からして、笠に約束的の形を殘してゐた。此は、近世京都ではたゝき[#「たゝき」に傍線]と言ふ非人のすることになつて居た。たゝき[#「たゝき」に傍線]の原形だと言はれてゐる胸叩《ムネタヽ》きと言ふ乞食者は、顏だけ編み笠で隱して、裸で胸を叩きながら「春參らむ」と言うたとあるから、「節季に候」と「春參らむ」とは、一續きの唱へ言であつたことが知れる。さうしてたゝき[#「たゝき」に傍線]の正統は、誓文拂ひ位から出たすた/\坊主[#「すた/\坊主」に傍線]に接續して居る。而も、其常用文句は「すた/\坊主の來る時は、世の中よいと申します」と言ふ、元來、明年の好望なることを豫約するものであつた。
大晦日は前にも述べたとほり、節分・立春前夜・十四日年越しと共通の意味を持つた日と考へられて居た爲、かうした點にも同樣の事が行はれた
前へ 次へ
全10ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング