。「厄拂ひ」は、右のいづれの日にか行はれるもので、節分には限らない。奈良では、「富み/\」と唱へて驅け歩く夙《シユク》の者の出たのが、大晦日である。たゝき[#「たゝき」に傍線]と言ふ悲田院の者も、實は此夜門戸を叩いて唱へ言をして歩いたからであらう。徒然草の「つごもりの夜いたう暗きに松どもともして、夜半すぐるまで人の門たゝきはしりありきて、何ごとにかあらむ、こと/″\しくのゝしりて足を空にまどふ」とあるのゝ職業化したもので、元祿時代までも非人以外に、町内の子どもゝして歩いた樣である。而も、兼好は、東國風として、大晦日の夜に、靈祭りをする國あるを傳へて居る。
寶船を賣りに來るのも、除夜或は節分の夜である。正月二日に賣り歩くのは、變態である。元旦未明から若えびす賣りが來る事は、やはり江戸中期まではあつたことである。其からは物吉《モノヨシ》・萬歳が來て、門をほめ、柱をほめ、屋敷・廐・井戸をほめて※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]る。猿※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]しの來るのも正月で、主として廐祈祷の意を持つてゐる。京ではたゝき[#「たゝき」に傍線]、江戸では非人の女太夫が鳥追ひに來るのも、小正月までの事である。又、同期間に亙つて、江戸の中頃までは、懸想文うりが出た。此は、祇園の犬神人《イヌジンニン》の專業であつた樣だから、常陸帶同樣、當年一杯に行はるべき氏人の結婚の豫言と見るのが適當である。さすれば、鹿島の「言觸《コトフ》れ」の原義も辿る事が出來よう。其外にも生計上の豫言が含まれて居る。
鳥追ひの女太夫ばかりでなく、室町・聚樂の頃までは、年頭祝言に出る者に桂女《カツラメ》があつた。將軍家の婚禮にも、戰爭の首途にも、祝言を唱へに來た。桂女《カツラメ》は、巫女から出て、本義は失ひながら、まだ乞食者にも藝人にも落ちきつて居ないものである。女で尚、ある時期を主とする乞食者に「姥等《ウバラ》」がある。此は、白河に居た者で、師走に專ら出る者であつた。上に列擧した者は、大抵門口から還るのだが、萬歳・桂女は、深く屋敷に入り、座敷までも上つて居る。
かうした職業者以外で言ふと、十月から既に來春を豫祝する意で、玄猪の行事がある。此夜は、村の子どもが群をなして、屋敷に自由に入つて來て、地を打ち固める形式をするが、共通の樣である。多くの地方で、海鼠を以て、※[#「鼬」の「由」にかえて「偃」のつくり、18−5]鼠を逐ふ儀式と信じて居る。大晦日・節分の厄拂ひも、若い衆が行ふ地方はまだある。而も、厄拂ひに似て居て、意義不明なほと/\[#「ほと/\」に傍線]・とのへい[#「とのへい」に傍線]・こと/\[#「こと/\」に傍線]など言ふ簡單な唱へ言をして、家々の門戸を歴訪し、中には餅錢などを貰ひ受け、或は不意の水祝ひ[#「水祝ひ」に傍線]を受けて、還るのもある。皆恐らくおとづれる戸の音の聲色を使ふのであつて、ほと/\[#「ほと/\」に傍線]と言つた古言で、おとなひ[#「おとなひ」に傍線]を表した時代から固定した唱文であり、儀式であつたのであらう。
小正月或は元日に、妖怪の出て來るのは、主として奥羽地方である。なもみはげたか[#「なもみはげたか」に傍線]・なまはげ[#「なまはげ」に傍線]・がんぼう[#「がんぼう」に傍線]・もうこ[#「もうこ」に傍線]など言ふ名で、通有點は簑を著て、恐しい面を被つて、名稱に負うた通りの唱へ言、或は、唸り聲を發して家々に踊りこんで、農村生活に於ける不徳を懲す形をして行くのである。私は、地方々々の民間語原説はどうあらうとも、なま[#「なま」に傍線]・なもみ[#「なもみ」に傍線]は、玄猪の「海鼠」と語原を一つにしたもので、おとづれ人[#「おとづれ人」に傍線]の名でなくば、其目的として懲らさうとする者の稱呼ではないかと思ふ。さうでなくば、尠くとも、我が古代の村々の、來向ふ春の祝言の必須文言であつたとだけは言はれよう。此妖怪、實は村の若い衆の假裝なのである。村の若者が人外の者に扮して、年頭の行事として、村の家々を歴訪すると言ふのは、どう言ふ意味であらうか。何にしても、不得要領なほと/\[#「ほと/\」に傍線]と同じ系統で、まだ其程に固定して居ないものだと言ふ事は知れる。
五 遠處の精靈
村から遠い處に居る靈的な者が、春の初めに、村人の間にある豫祝と教訓とを垂れる爲に來るのだ、と想像することは出來ぬだらうか。簑笠を著けた神、農作の初めに村及び家をおとづれる類例は、沖繩縣の八重山列島にもあちこちに行はれてゐる。
此おとづれ人[#「おとづれ人」に傍線]の名をまやの神[#「まやの神」に傍線]と言ふ。まや[#「まや」に傍線]は元來は國の名で、海のあなたにある樂土を表す語らしい。臺灣土民の中にも、阿里山蕃人は、神話の上に此樂土の名を傳へて居る。而も沖繩本島の西北の洋中にある伊平屋《イヘヤ》列島にも、古く此樂土の名を傳へてゐたことを思へば、偶發したものとは考へられない。まや[#「まや」に傍線]を沖繩語「猫」に用ゐるところから、猫の形をした神と考へて居る村もあるのは、却つて逆で、まやの國[#「まやの國」に傍線]から來た畜類と言ふ事なのであらう。蒲葵《クバ》の葉の簑笠で顏姿を隱し、杖を手にしたまやの神[#「まやの神」に傍線]・ともまやの神[#「ともまやの神」に傍線]の二體が、船に乘つて海岸の村に渡り來る。さうして家々の門を歴訪して、家人の畏怖して頭もえあげぬのを前にして、今年の農作關係の事、或は家人の心を引き立てる樣な詞を陳べて※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]る。さうした上で、又、洋上遙かに去る形をする。つまりは、初春の祝言を述べて歩くのである。
此は勿論、其村の擇ばれた若者が假裝した神なのである。村人の中、女及び成年式を經ない子供には絶對に知らせない祕密で、同時に状を知つた男たちでも、まやの神[#「まやの神」に傍線]來訪の瞬間は眞實の神と感じ、まやの神[#「まやの神」に傍線]自身も神としての自覺の上に活いて居る樣である。此樣に大切な神にも拘らず、村によつては猫の怪物と聯想して居ると言ふ風に、どこかに純化しきつた神とは言はれぬ點を交へて居る。かうして見ると、なもみはげたか[#「なもみはげたか」に傍線]との隔りは、極めて纔かなものになつて來るのである。
おなじ八重山群島の中には、まやの神[#「まやの神」に傍線]の代りににいる[#「にいる」に傍線]人《ピツ》を持つて居る地方も、澤山ある。蛇の一種の赤また[#「赤また」に傍線]、其から類推した黒また[#「黒また」に傍線]と言ふのと一對の巨人の樣な怪物が、穗利《フウリイ》祭に出て來る。處によつては、黒また[#「黒また」に傍線]の代りに、青また[#「青また」に傍線]と稱する巨人が、赤また[#「赤また」に傍線]の對に現れるのもある。此怪物の出る地方では、皆、海岸になびんづう[#「なびんづう」に傍線]と稱へる岩窟の、神聖視せられて居る地があつて、其處から出現するものと信じて居る。なびんづう[#「なびんづう」に傍線]は、巨人等の通路になつて居るのだ。
にいるすく[#「にいるすく」に傍線]と言ふ處が、巨人の本處であると考へて、多くの人は海底にあると説く。にいる[#「にいる」に傍線]は奈落で、すく[#「すく」に傍線]は底だと言ふが、にいる[#「にいる」に傍線]は明らかに別の語である。にこらい・ねふすきい[#「にこらい・ねふすきい」に傍線]氏の考へでは、すく[#「すく」に傍線]も底ではなく、此群島地方で、底をすく[#「すく」に傍線]と言ふ事はない。やはり壘・村・國を意味して居るさうだ。つまり、にいる國[#「にいる國」に傍線]と言ふ事になる。ぴつ[#「ぴつ」に傍線]は人であるが、一種の敬意を持つた言ひ方で、靈的なものなる事を示して居るのである。
にいる人[#「にいる人」に傍線]の行ふ事は、一年中の作物の豫祝から、今年中の心得、又は昨年中、村人の行動に對する批評などもある。村人の集つて居る廣場に出て踊り、其後で家々を歴訪すること、及び其に對する村人の心持ちは、まやの神[#「まやの神」に傍線]と同樣である。
にいる人[#「にいる人」に傍線]の出る地方の青年には、又、酉年毎に成年式が執り行はれる。一日だけではあるが、かなりの苦行を命じられる儘にせなければならない。まやの國[#「まやの國」に傍線]から來る神と、にいるすく[#「にいるすく」に傍線]から來る靈物との間に違ふ點は、形態の差異だけしかない訣であるが、にいる人[#「にいる人」に傍線]の方が、村の生活・村の運命との交渉が緻密である樣に見える。此巨人も、擇ばれた若者たちが、一體につき二人づゝ交替に這入ることになつて居る。其を男たちは知つて居て、而も敬虔感は失はないのである。
にいるすく[#「にいるすく」に傍線]は、海底か洋上か、其所在、頗、曖昧であるが、此は後に説くとして、先島の人々は、にいるすく[#「にいるすく」に傍線]を恐しい處と考へて居ることは、事實である。暴風もにいるすく[#「にいるすく」に傍線]から吹くと考へて居る。此は洞窟を以て、風伯の居る所とし、其海岸にあるものは、黄泉への通路として居る世界的信仰と脈絡があるのである。風とにいる[#「にいる」に傍線]との關係に就ては、沖繩本島でも、風|凪《ナ》ぎを祈るのに、にらいかない[#「にらいかない」に傍線]へ去れと唱へるので訣る。にいる[#「にいる」に傍線]を風の本據と見て居る證である。
にらいかない[#「にらいかない」に傍線]は、言ふまでもなく、にいる[#「にいる」に傍線]と同じ語で、かない[#「かない」に傍線]は對句表現である。にらいかない[#「にらいかない」に傍線]・じらいかない[#「じらいかない」に傍線]・儀來河内《ギライカナイ》・けらいかない[#「けらいかない」に傍線]など、沖繩本島の文獻には見えて居る。本島には、にらいかない[#「にらいかない」に傍線]から、初夏になると、蚤が麥稈の舟に麥稈の棹をさしてやつて來るといふ信仰から來た諺がある。
沖繩本島のにらいかない[#「にらいかない」に傍線]は、琉球神道に於ける樂土であつて、海のあなたにあるものと信じて居る地だ。さうして人間死して、稀に至ることもあると考へられた樣である。神は時あつて、此處から船に乘つて、人間の村に來ると信じた。其が海岸から稍入りこんだ地方にも及してゐる。だから、沖繩の村は海岸から發達したことは知れる。方言では多く、其神を「にれい神《カン》がなし」と稱して居る。到る處の村々の祭りに海上から來る神である。
琉球王朝では、遠方より來る神を地神の上に位せしめて居た樣である。さうして、天神と海神とに區分して居る。儀來河内《ギライカナイ》の神は、海神に屬するのである。さうして其所在地は、東方の海上に觀じて居たらしく見える。あがり[#「あがり」に傍線]の大主《ウフヌシ》と言ふのが、一名儀來の大主《ウフヌシ》なのである。あがり[#「あがり」に傍線]は東である。今實在の島である大東島《ウフアガリジマ》は、實は舊制廢止以後までも、空想の島であつた。更に古くは、本島東岸の久高《クタカ》・津堅《ツケン》の二島の如きも、樂土として容易に近づき難い處と考へられた時代もあつた樣である。
琉球神道の上のにらいかない[#「にらいかない」に傍線]は光明的な淨土である。にも拘らず、多少の暗影の伴うて居るのは、何故であらう。今一度、八重山群島の民間傳承から話をほぐし[#「ほぐし」に傍点]て行きたい。
六 祖靈の群行
村々の多くは、今も盂蘭盆に、祖先の靈を迎へて居る。此をあんがまあ[#「あんがまあ」に傍線]と言ふ。考位《ヲトコカタ》の祖先の代表を謂ふ大主前《オシユマイ》・妣位《ヲンナカタ》の代表と傳へる祖母《アツパア》と言ふ一對の老人が中心になつて、眷屬の精靈を大勢引き連れて、盆の月夜のまつ白な光の下を練り出して來る。どこから來るとも訣らないが、墓地から來るとは言はぬらしい。小濱島では、大《オホ》やまと[#「やまと」に傍線]から來
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