ると言うて居るから、海上の國を斥《サ》すのであらう。あんがまあ[#「あんがまあ」に傍線]と言ふ名稱も、私は其練り物の名ではなく、まや[#「まや」に傍線]・にいる[#「にいる」に傍線]同樣、其本據の國の稱へであらうと思ふよしは、後に言ふ。
盆の三日間夜に入ると、村中を※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つて迎へられる家に入つて、座敷に上つて饗應を受ける。勿論、若い衆連の假裝で、顏は絶對に露さない。元は、芭蕉の葉を頭から垂れて、葉の裂け目から目を出して居たと言ふが、今は木綿を以て頭顏を包んで、其に眉目を畫き、鼻を作つて、假面の樣にして居る。大主前《オシユマイ》が、時に起つて家人に色々な教訓や批難或は慰撫・激勵をするが、輕口まじりに人を笑はせることが多い。時には、隨分恥をかゝせる樣なことも言ふさうである。大主前《オシユマイ》の默つて居る間は、眷屬たちが携へて來た樂器を鳴して、舞ひつ謠ひつ藝づくしをして歡を恣にする。家の主人・主婦等は、ひたすら、あんがまあ[#「あんがまあ」に傍線]の心に添はうと努めて居る。大主前《オシユマイ》は、色々な食物の註文をして催促することもある。
あんがまあ[#「あんがまあ」に傍線]は「母小《アモガマ》」で、がま[#「がま」に傍線]は最小賞美辭である。而も、沖繩語普通の倒置修飾格と考へる事が出來るから、「親しい母」と言ふ位の意を持つ。即、我が古代語の「妣《ハヽ》が國」に適切に當るのである。此も後に説くが、「妣《ハヽ》が國」も、海のあなたにあるものとして居たことは疑ひがない。我が國に多い「あくたい祭り」、即、有名な千葉笑ひ・京五條天神の「朮《ウケラ》祭り」の惡口・陸前鹽竈のざっとな[#「ざっとな」に傍線]・河内野崎觀音詣での水陸の口論の風習の起りは、此處にあるのである。
そしる[#「そしる」に傍線]と言ふ語は、古くさゝやく[#「さゝやく」に傍線]と言ふ内容を持つたに過ぎぬが、人の惡口を耳うちすると言ふ風に替つたのは、此邊に理由があるのではないか。そしる[#「そしる」に傍線]は日・琉に通じる古語で、託宣する事である。託宣はさゝやかれる[#「さゝやかれる」に傍線]のが本式であつた。ところが、一方へ分化したのは、託宣の形を以て、人の過ち・手落ちを誹謗することが一般に行はれた處から、そしる[#「そしる」に傍線]の現用々語例が出來たものであらう。
八重山の村々で見ても、今こそ一村一族と言ふものはなくなつて、大抵、數個の門中からなつて居るが、古い形は大體一つの門中を以て、村を組織して居たのであるから、一つのあんがまあ[#「あんがまあ」に傍線]が、村中のどこの家にも迎へられることの出來る訣はわかる。さうした祖《オヤ》の精靈の、時あつて子孫の村屋に臨み、新しい祝福の辭を述べると共に、教訓・批難などをして行つた古代の民間傳承が、段々神事の内容を持つて來る事も考へにくゝはない。
内地の祭禮の夜にあくたい[#「あくたい」に傍線]の伴ふ事があるのは、悠遠な祖先の邑落生活時代に村の死者の靈の來臨する日の古俗を止めて居るのである。勿論、我が國農村に近世まで盛んに行はれた村どうしの競技に、相手の村を屈服させることが、おのが村の農作を豐かにするとしたかけあひ[#「かけあひ」に傍線]・かけ踊り[#「かけ踊り」に傍線]の側の形式をとり込んでゐるのであらうが、主としての流れは、祖靈のそしり[#「そしり」に傍線]にある事と思ふ。一村が一族であるとしたら、子孫の正系が村君である。祖靈が、村の神人の口に託して、村君のやり口を難ずる事があつたとしたら、此を咎める事も出來ないはずである。かう言ふ風に、神人の爲事が、村の幸福と政治との矛盾した點に觸れることが多くなつて來るに連れて、姿は愈、隱され、聲は益、作られて、其誰とも知れない樣に努める樣になつて來るのは、當然である。「千葉笑ひ」の如きは、神人の意識的のそしりが含まれて來る訣である。ざつとな[#「ざつとな」に傍線]は家々を訪問する點に於てあんがまあ[#「あんがまあ」に傍線]に近い者である。
祖靈が夙く神と考へられ、神人の假裝によつて、其意思も表現せられる樣になつたのが、日本の神道の上の事實である。而も尚、神の屬性に含まれない部分を殘して居るのは、「みたまをがみ」の民間傳承である。古代日本人の靈魂に對する考へは、人の生死に拘らず生存して居るものであつて、而も同時に游離し易い状態にあるものとしてゐた。特に生きて居る人の物と言ふ事を示す爲に、いきみたま[#「いきみたま」に傍線]と修飾語を置く。靈祭りは、單に死者にあるばかりではなかつた。生者のいきみたま[#「いきみたま」に傍線]に對して行うたのであつた。さうして其時期も大體同時であつたらしい。
僞經だと言ふ「盂蘭盆經」には、盂蘭盆を年中六囘と定めて居る。「魂祭り」は中元に限るものでなかつたことを示してゐるのであらう。「魂祭り」類似の形式が「節の祭り」と融合して殘つて居る痕が見える。七夕も盆棚と違はぬ拵への地方があり、沖繩では盆・七夕を混同してゐる。八朔にも、端午にも、上巳にも、同樣な意味を示す棚飾りと、異風を殘した地方がある。正月の喰ひ積み、幸木《サイハヒギ》系統の飾り物には、盆棚と共通の意味が見られる。大晦日を靈の來る夜とした兼好の記述から見ても、正月に來り臨む者の特別な靈物であつたことが考へられる。
七 生きみ靈
生き御靈[#「生き御靈」に傍線]の方で言はう。中世、七夕の翌日から、盂蘭盆の前日までを、いきみたま[#「いきみたま」に傍線]、或は、おめでたごと[#「おめでたごと」に傍線]なる行事のある期間としてゐた。恐らく武家に盛んであつたのが、公家にも感染して行つた風俗と思はれるが、宗家の主人の息災を祝ふ爲に、鯖《サバ》を手土産に訪問する風が行はれた。家人が主人に對してすることもあり、農村では子方から親方の家に祝ひ出ることもあつた。此は一族の長者を拜する式だつたのが、複雜になつたものらしい。おめでたごと[#「おめでたごと」に傍線]と言ふのは、主公の齡のめでたからむことを祝福しに行くから出た語である。いきみたま[#「いきみたま」に傍線]と稱へる訣は、主公の體内の靈を拜して、其に「めでたくあれ」と祈つて來るからである。盂蘭盆に對して、今も之を生き盆[#「生き盆」に傍線]と稱して行ふ地方もある。畢竟、元は生者死者に拘らず、此頃、靈を拜したなごりに違ひない。結局、鎭魂祭は生き御靈[#「生き御靈」に傍線]の爲に行はれたのが、漸次、意義を分化して、互に交渉のない祭日となつて了うたものであらう。だから、節供に靈祭りの要素のあることも納得出來る。季節の替り目にいきたま[#「いきたま」に傍線]の邪氣に觸れることを避けようとしたのである。
おめでたごと[#「おめでたごと」に傍線]から引いて説くべきは、正月の常用語「おめでたう」は、現状の讚美ではなく、祝福すべき未然を招致しようとする壽詞であると言ふことである。生き盆のおめでたごと[#「おめでたごと」に傍線]と同じ事が、宮廷で行はれてゐた。春秋の朝覲行幸が其である。天子、其父母を拜する儀であつて、上皇・皇太后が、天子の拜を受け給ふのであつた。單に其ばかりでなく、群臣の拜賀も同じ意味から出たものであつた。
奈良朝以前は、各氏[#(ノ)]上――恐らくは氏々の神の神主の資格に於て――が、天子に「賀正事《ヨゴト》」を奏上することになつてゐた。賀正事《ヨゴト》は意義から出た宛て字で、壽詞《ヨゴト》と同じである。古い程、すべての氏々の賀正事《ヨゴト》を奏したのであらうが、後は漸く代表として一氏或は數氏から出るに止めた樣である。此も家長に對する家人としての禮を以て、天子に對したのである。だから、壽詞を奏することが、服從の意を明らかに示すことになつて居たとも見られる。
古代に於ける呪言《ヨゴト》は、必、其對象たる神・精靈の存在を豫定して居たものである。賀正事《ヨゴト》に影響せられる者は、天子の身體といふよりも、生き御靈[#「生き御靈」に傍線]であつたと見るのが適當である。天子の生き御靈[#「生き御靈」に傍線]の威力を信じて居たのは、敏達天皇紀十年閏二月|蝦夷綾糟《エミシアヤカス》等の盟ひの條に
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泊瀬の中流に下り、三諸《ミモロ》[#(ノ)]岳に面し、水に漱ぎ、盟ひて曰はく……若し盟に違はば、天地の諸神、及び天皇の靈、臣が種を絶滅さむ。
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とあるのは、恐らく文飾ではあるまい。
正月、生き御靈[#「生き御靈」に傍線]を拜する時の呪言が「おめでたう」であつたとすれば、正月と生き盆との關係は明らかである。生き盆[#「生き盆」に傍線]と盂蘭盆との接近を思へば、正月に魂祭りを行つたものと見ることも、不都合とは言はれない。柳田國男先生は、やはり此點に早くから眼を著けて居られる。
私は、みたまの飯[#「みたまの飯」に傍線]の飯[#「飯」に傍線]は、供物《クモツ》と言ふよりも、神靈及び其眷屬の靈代だと見ようとするのである。此點に於て、みたまの飯[#「みたまの飯」に傍線]と餅[#「餅」に傍線]とは同じ意味のものである。白鳥が屡餅[#「餅」に傍線]から化したと傳へられる點から推して、靈魂と關係あるものと考へて居る。なぜなら、白鳥が靈魂の象徴であることは、世界的の信仰であるから。餅[#「餅」に傍線]はみたま[#「みたま」に傍線]を象徴するものだから、それが白鳥に變じると言ふのは、極めて自然である。みたまの飯[#「みたまの飯」に傍線]と餅[#「餅」に傍線]とは、おなじ意味の物である。我々は、餅[#「餅」に傍線]を供物と考へて來てゐたが、實はやはり靈代であつたのだ。
鏡餅の如きも、神に供へる形式をとつては居ない。大黒柱の根本に此を据ゑて、年神の本體とする風、又、名高い長崎の柱餅などの傳承を見ると、どうしても供物ではなく、神體に近いものである。盆棚の供物と似た「食ひつみ」を設ける地方では、餅・飯を以て靈代とする必要がなかつた。他の農作物或は山の樹木を以て表すことが出來た。其故、固陋に舊風を墨守した村又は家では、正月餅を搗かぬ傳承を形づくつたのである(民族第一卷第二號)。
八 ことほぎ[#「ことほぎ」に傍線]とそしり[#「そしり」に傍線]と
ことほぐ神[#「ことほぐ神」に傍線]と、そしる神[#「そしる神」に傍線]とに就ては、既に述べた。さうして、藝術の芽生えがおとづれ人[#「おとづれ人」に傍線]の手で培はれた事を斷篇的には述べて置いた。此に就て、今少し話を進める方が、靈とおとづれ人[#「おとづれ人」に傍線]との關係を明らかにするであらう。
先島列島のあんがまあ[#「あんがまあ」に傍線](沖繩の村芝居)に似た風習が、沖繩本島にある。田畠のはじめの清明の節に行はれることで「村をどり」と言ふのが、此である。此は、若い衆多人數を以て組織せられた團體で、村の寄り場から、勢揃ひをして、樂器を鳴らしながら練つて來るのは、あんがまあ[#「あんがまあ」に傍線]同樣で、此は日中であるだけが違ふ。踊り衆もあり、唐手使ひ・棒踊りの連中もこめて、一組になつて來る。順番によつて、それ/″\藝を演ずるのであるが、其「村をどり」になくてはならぬ定式の演藝がある。其は、第一「長者《チヤウジヤ》の大主《ウフツシユ》」の作法と、第二「狂言」とである。
長者の大主《ウフツシユ》は、其村の祖先と考へられて居るもので、白髯の老翁に扮してゐる。此が村をどり[#「村をどり」に傍線]の先導に立つ一行の頭である。此頭が舞臺に上ると、役名を親雲上《ペイチン》と稱する者が迎へてもてなすのである。此は、正統の子孫の族長たる有位の人と言ふ考へに依つてゐるのである。さすれば、長者の大主に隨ふ人々は、あんがまあ[#「あんがまあ」に傍線]の眷屬と同一の者でなければならぬ。さうして、其演ずる藝もまたあんがまあ[#「あんがまあ」に傍線]の場合と同樣に見てよい。だから、琉球の演劇の萌芽なる村をどり[#「村をどり」に傍線]は、遠方から來臨する祖靈及び眷屬
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