の遊びに、其源を發して居るのである(島袋源七氏の報告に據る)。
多くの土地では、親雲上《ペイチン》が大主《ウフツシユ》を迎へて後、扇をあげて招くと、儀來《ギライ》の大主《ウフヌシ》が登場して、五穀の種を親雲上に授けて去る。其後、狂言が始まるのだが、村によつて、皆、別々の筋を持つて居る。他の演藝は殆、同樣であるが、狂言だけは、村固有のもので、共通な處はない。茶番狂言に類する喜劇で、輕口・口眞似などを主として居る(比嘉春潮氏報告)。
此解説は、同時によごと[#「よごと」に傍線]の起原にも觸れて行く。我が國の演劇の中、長者の大主の形式と同じ形の殘つて居るものは、能樂である。翁の「神歌」を見ても、翁は農作を祝福する神の、藝術化して行く途中にある者だと言ふことは訣る。長者の大主は「翁の起原」を示して居るし、そして儀來の大主は「翁の意味」を説いてゐる。而も後者は、單に翁が二重になつて居るだけでなく、三番叟の起原をも示して居るのである。
三番叟は、おなじ老體を表して居るが、黒尉《クロジヨウ》と稱へて黒いおもて[#「おもて」に傍線]を被つて居る。さうして必、狂言師の役にきまつてゐる。能樂に於ける狂言或は「をかし」の役者は、田樂で言へばもどき[#「もどき」に傍線]に相當する者で、「牾き」と言ふ名義どほり、して方[#「して方」に傍線]の言語動作をまぜかへし、口眞似・身ぶりをして、ぢり/″\[#「ぢり/″\」に傍点]させながら、滑稽感を唆るものである。
此は疑ひもなく、我が國の原始状態の演劇に缺く事の出來ない要素であつた。して方[#「して方」に傍線]と此もどき狂言[#「もどき狂言」に傍線]との問答が、古い程重要で、此が輕んじられるに隨つて、わき役[#「わき役」に傍線]が獨立する樣になつたのである。神樂で言へば、人長に對する「才《サイ》の男《ヲ》」である。して方[#「して方」に傍線]にかうしたもどき[#「もどき」に傍線]の對立する訣は、日本の演劇が、かけあひ[#「かけあひ」に傍線]から出發してゐるからである。
此事は、既に詳しく述べた。つまりは、して方[#「して方」に傍線]は神、もどき[#「もどき」に傍線]は精靈であつた宗教儀式から出たからであるのだ。精靈が神に逆らひながら、遂に屈從する過程を實演して、其效果を以て一年間を祝福したのである。黒尉が狂言方の持ち役ときまつて居るのは、翁と三番叟との關係が、神と精靈との對立から出て來たものなることを示してゐるのである。
能樂師は翁を神聖視して居るが、どうしても神社に祀つてある神ではない。たとひ、翁が「春日若宮祭り」の一の松の行事に出發したと見ても、春日の神でない事は説明が出來る。況んや、これは春日の祭りとは關係のない古い宗教演劇だと言ふことが出來るのだ。思ふに、我が國の村々の宗教演劇に於て、皆かうした翁の出現して、土地の精靈を屈服させる筋を演出して居たのが、神樂には「才の男の態」となり、春日神社の猿樂師が保存した翁となつたのであらう。
翁一人でなく、高砂の尉と姥との樣な、夫婦神の來臨を言ふ事も多い。近世は、大抵、猿田彦・鈿女[#(ノ)]命と説明する樣であるが、此は、やはり大主前《オシユマイ》・祖母《アツパア》の對立を以て説明すべき者であり、翁は長者の大主とおなじ起りを持つたものと見ることが出來る。さうすると、椎根津彦《シヒネツヒコ》と乙猾《オトウカシ》の翁嫗姿の原意も、やはり遠くより來るおとづれ人[#「おとづれ人」に傍線]を表す者であつたことに思ひ當るであらう。
沖繩の民間傳承から見ると、稀に農村を訪れ、其生活を祝福する者は、祖靈であつた。さうしてある過程に於ては妖怪であつた。更に次の徑路を見れば、海のあなたの樂土の神となつてゐる。我が國に於ても、古今に亙り、東西を見渡して考へて見ると、微かながら、祖靈であり、妖怪であり、さうして多く神となつて了うてゐる事が見られるのである。かうした村の成年者によつて、持ち傳へられ、成年者によつて假裝せられて持續せられた信仰の當體、其來り臨む事の極めて珍らしく、而も尊まれ、畏れられ、待たれした感情をまれびと[#「まれびと」に傍線]なる語を以て表したものと思ふ。私の考へるまれびと[#「まれびと」に傍線]の原始的なものは、此であつた。
祖先であつたことが忘れられては、妖怪・鬼物と怖れられた事もある。一方に神として高い位置に昇せられたものもある。我が國のまれびと[#「まれびと」に傍線]の雜多な内容を單純化して、人間の上に飜譯すると、驚くべく歡ぶべき光來を忝うした貴人の上に移される。賓客をまれびと[#「まれびと」に傍線]と言ひ、賓客のとり扱ひ方の、人としての待遇以上であるのも、久しい歴史ある所と頷かれるであらう。
九 あるじ[#「あるじ」に傍線]の原義
主人をあるじ[#「あるじ」に傍線]と言ふのは原義ではない。あるじする人[#「あるじする人」に傍線]なるが故に言ふのである。あるじ[#「あるじ」に傍線]とは、饗應の事である。まれびと[#「まれびと」に傍線]を迎へて、あるじ[#「あるじ」に傍線]するから轉じて、主客を表す名詞の生じたのもおもしろい。此に暫く、あるじ[#「あるじ」に傍線]側の説明をして置く必要を感じる。
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たまだれの小甕《ヲガメ》を中に据ゑて、あるじ[#「あるじ」に傍線]はもや。さかなまぎに、さかなとりに、小淘綾《コヨロギ》の磯のわかめ刈り上げに(風俗)
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此等になると、あるじ[#「あるじ」に傍線]云々は、主人はと物色する心持ちか、馳走は何と待つ心か、兩樣にはたらく樣で、平安朝末までもあるじ[#「あるじ」に傍線]の用語例は動搖し、漸くあるじぶり[#「あるじぶり」に傍線]など言ふ風の傾きを生じかけて居る。我が國の記録には、第一義のまれびと[#「まれびと」に傍線]に關しては、敍述が乏しくして、痕跡の窺はれるものがあるに過ぎないが、此方面からでなくては説けない史實が多くある。
藤原氏の氏[#(ノ)]長者が持ち傳へたと言ふので、皇室の三種の神器に次ぐ樣な貴重な感情を起させた朱器・臺盤と言ふ重器は、何の爲に尊いのか、何をする物であつたか、私はまだ其説明を聞いたことがない。併し、朱器は朱の漆で塗つた盃であつたらうと言ふ事は、他の用例を見れば知れる。臺盤は食膳である。此が何の爲に、重器として傳へられる資格を持つのか。傳説では藤原冬嗣の時に新造した物と言ふ。氏[#(ノ)]長者の重器とするには、歴史淺いかの觀がある。私は恐らく使用に堪へなくなつた爲に、更めて新しく造つた事を言ふのではないかと思ふ。其にしても、食器が氏[#(ノ)]長者の標識となる理由は、私の此考へ方に由る外は、説明はつくまい。つまり氏[#(ノ)]長者としては、是非設けねばならぬあるじ[#「あるじ」に傍線]を執り行ふに必要なる品で、由緒ある物なのであらう。
單純に説明すれば、氏[#(ノ)]長者を繼ぐと、其披露の饗宴を催さねばならぬ。其時に名譽の歴史ある傳來品を用ゐると考へて見ることが出來る。眞に右から左へである。使ふ爲に讓られ、次に用ゐる時は、氏[#(ノ)]長者は自分の手から、他に移つて居ると言ふ事になると見るのである。此見地からしても、饗宴が如何に大切であり、氏[#(ノ)]長者披露のあるじ[#「あるじ」に傍線]が一世一代であるかゞ想像出來る。
而も、私は尚一般の推論を立てゝ居る。氏[#(ノ)]上・氏[#(ノ)]長者の稱は藤原氏のみの事ではない。藤原氏の勢力の陰に隱れて、他氏の氏[#(ノ)]上は問題にならなくなつたが、氏[#(ノ)]上披露の饗宴の器具なる故と言ふ處に力點を置いて見るならば、他氏の氏[#(ノ)]上にも、早くから此と似よりの事が言はれて居るはずである。其が一つも傳はらないのは、記録の湮滅と言ふよりも、藤原氏特有の重器と言ふ事に意味が生じたのではあるまいか。
藤原氏は宮廷神の最高級の神職であつた中臣から出て、政權に與る爲に、教權を大中臣氏に委ねた家柄である。だから、其家の重器としては、宮廷神の祭祀或は中臣の祖神の爲の祭祀に關聯した器具を持ち傳へる事はあるべき事である。教權は大中臣氏に繼がせても、氏[#(ノ)]長者の權威を保つ爲には、祖宗以來の重器としての祭器を傳へたことも想像出來る。私は宮廷の公祭、中臣の私祭に來り臨むまれびと[#「まれびと」に傍線]の爲のあるじまうけ[#「あるじまうけ」に傍線]の器具であつて、其爲に極めて貴重な物として繼承せられた事と思ふ。さうした朱器・臺盤も、果して平安朝に入つて幾度使はれたらうか。記録も其事を傳へない。藤原氏にとつて神聖な祕事であつたに違ひない。
此推論を強める一つの民間傳承がある。それは各地方に分布してゐる椀貸し塚・椀貸し穴の傳説である。多數の客を招くのに、木具のない時、ある穴の前に行つて、何人前の木具を貸し賜はれと書き付けをして還ると、翌日其だけの數が穴の前に出されてゐた。ところが、或時、狡猾な人間が一つをごまかした爲に、二度と出さなかつたと言ふ形式の話が、可なり廣く擴がつて行はれて居る。かうした物語の分布は、其處に久しい年月のあることを考へさせる。私は、まれびと[#「まれびと」に傍線]を迎ふるあるじ[#「あるじ」に傍線]の苦勞の幾代の印象が、かうした傳説となつたので、椀貸し塚から出した木具が皆塗り物であつた點が、とりわけ朱器・臺盤との脈絡を思はせるものがある。
一〇 神來訪の時期
繰り返へして言ふ。我が國の古代には、人間の賓客の來ることを知らず、唯、神としてのまれびと[#「まれびと」に傍線]の來る事あるをのみ知つて居た。だから、甚稀に賓客が來ることがあると、まれびと[#「まれびと」に傍線]を遇する方法を以てした。此が近世になつても、賓客の待遇が、神に對するとおなじであつた理由である。だが、かう言うては、眞實とは大分距離のある言ひ方になる。まれびと[#「まれびと」に傍線]が賓客化して來た爲、賓客に對して神迎への方式を用ゐるのだと言ふ方が正しいであらう。まれびと[#「まれびと」に傍線]として村内の貴人を迎へることが、段々意識化して來た爲に、そんな事が行はれたのだ。今までの敍述は、まれびと[#「まれびと」に傍線]の輪廓ばかりであつた。此からは其内容を細かに書いて見たい。
まれびと[#「まれびと」に傍線]の來る時期はいつか。私は定期のおとづれ[#「おとづれ」に傍線]を古く、臨時のおとなひ[#「おとなひ」に傍線]を新しいと見てゐる。不時に來臨するのは、天神或は地物の精靈の神としての資格が十分固定した後に、其等の神々の間にあつたことである。其がまれびと[#「まれびと」に傍線]の方に反映したものと思はれるから、まづ春の初めに來ると考へたであらう。まれびと[#「まれびと」に傍線]の來ることによつて年が改まり、村の生産がはじまるのであつた。我が國では、年の暮れ・始めにおとづれ來る者のなごりは、前に述べたとほり數へきれないほどありながら、其形式は變り過ぎる程に變化した。抽象的な畏ればかりは妖怪となり、現實のまゝ若い衆自身々々を露はにする樣な行事にもなり、其が職業化し、藝術化した。さうして、其神祕な分子は、神となつて跡の辿られぬまでになつてゐる。此は歳徳神と陰陽道風に言ひ表されてゐる年神なのである。此神は、神道以外――寧、神道以前――の神である爲、記・紀其他に其名も見えない。大年神・御年神を此だとする説はあるが、まだ定らない。私は寧、出雲系統の創造神らしい形に見えるかぶろぎ[#「かぶろぎ」に傍線]・かぶろみ[#「かぶろみ」に傍線]の神々が、此に當るのではないかと考へて居る位である。此事は後に述べる。
年神の前身である春のおとづれ[#「春のおとづれ」に傍線]をするまれびと[#「まれびと」に傍線]は、老人であつて、簑笠を着た姿の、謂はゞ椎根津彦・乙猾とおなじ風で來り臨んだらうと云ふ推定は出來る。これが社々の年頭の祭事にとりこまれて、猿田彦・鈿女[#(ノ)]命の田植ゑ神事となつて居る。老人を一體と見たのは、
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