はりしたものと言へると思ふ。
靈液《クシ》の神《カミ》を常世《トコヨ》の少彦名《スクナヒコナ》とする處から見ても、まれびと[#「まれびと」に傍線]によつて酒ほかひ[#「酒ほかひ」に傍線]が行はれると見たことが知れる。又、大物主《オホモノヌシ》を以て酒ほかひの神[#「酒ほかひの神」に傍線]と見たことも、少彦名・大物主の性格の共通點から見れば、等しく常世のまれびと[#「常世のまれびと」に傍線]の來臨を考へて居たのである。
一三 まつり
春のほかひ[#「春のほかひ」に傍線]に臨むのをまれびと[#「まれびと」に傍線]のおとづれの第一次行事と見、秋の奉賽の獻《マツ》り事《ツカ》へが第二次に出來て、春のおとづれ[#「春のおとづれ」に傍線]と併せ行はれる樣になつたものと見られる。其は、秋の祭り即新甞の行事が、概して、春祭りよりは、新室ほかひ[#「新室ほかひ」に傍線]を伴ふ事多く、又、其が原形だと思はれる點から言ふ事が出來る。新室ほかひ[#「新室ほかひ」に傍線]は、吉事祓へ[#「吉事祓へ」に傍線]としての意味を完全に殘して居る。來年の爲の豫祝なのである。
春祭りにも新室、旅行にも新室を作るのは、神を迎へる爲の祓へに中心を移して行うた爲で、後の形であらう。併し、春祭りの樣に、今年から人[#「人」に傍線]となる村の男・女兒の爲の成年式は行はない。まれびと[#「まれびと」に傍線]優遇の爲に、家々の巫女なる處女・家刀自の侍ることはあるが、此は別である。一年間の農業、其他家の出來事に對する批判・解説などをしたのは、春のおとづれ[#「春のおとづれ」に傍線]にするよりは、刈り上げ祭りの方が適切である。
私の考へを言ふと、刈り上げ祭り[#「刈り上げ祭り」に傍線]と、新しい年のほかひ[#「ほかひ」に傍線]とは、元は接續して行はれてゐたのである。譬へば、大晦日と元日、十四日年越しと小正月、節分と立春と言つた關係で、前夜から翌朝までの間に、新甞[#「新甞」に傍線]とほかひ[#「ほかひ」に傍線]とが引き續いて行はれた。まれびと[#「まれびと」に傍線]は一度ぎりのおとづれ[#「おとづれ」に傍線]で、一年の行事を果したものであらう。其が時期を異にして二度に行はれる樣になつてからは、更に限りなく岐れて、幾囘となく繰り返される樣になり、更にまれびと[#「まれびと」に傍線]なる事が忘れられて、村の行事の若い衆として、きぢ[#「きぢ」に傍線]の儘に考へられ、とゞのつまりは、職業者をさへ出すことになつたのである。
おとづれ[#「おとづれ」に傍線]の度數の殖えた理由は、常世神の内容の變化して來た爲なのは勿論だが、今一つ大きな原因は、村の行事を、家の上にも移すことになつたからである。村全體の爲に來り臨み、村人すべての前に示現したまれびと[#「まれびと」に傍線]が、個々の村舍《ムラヤ》をおとづれる樣になつた。初めは、やはり村に大家《オホヤケ》が出來た爲である。村人の心を信仰で整理した人が、大家《オホヤケ》を作つた。此大家即村君の家に、神の來臨ある事が家屋及び家あるじの身の堅固の爲の言《コト》ほぎ[#「ほぎ」に傍線]の風を、段々其以下の家々にもおし擴めて行つた。併し、凡下の家に到るまで果してさうであつたかどうかは疑問である。けれども此點に問題を据ゑて、大體、時代が降る程、一般の風習となつて行つたと見てよからう。だから、或廣場、後には神地に村の人々を集めて、神意を宣つた痕跡と見るべき歌垣風の春祭り――秋にも此形を採る樣になつた地方がある――の方が、女の留守をする家々に、一人々々神及び神の眷屬の臨んで、ひと夜づま[#「ひと夜づま」に傍線]の形で婚ふ秋の祭りよりも、原始的だと言ふ事が出來る。
其に尠くとも今二つ、有力な原動力が考へられる。其は、祖先の一部分が曾て住みつき、或は經由して來た土地での農業暦である。それから、新古の來住漢人が固有して居た季節觀である。我々の祖先の有力な一部分は、南島から幾度となく渡つて來た事は疑ひがない。此種族が、わが中心民族の祖先と謂はないまでも――此に對しては、私は肯定説を持つてゐる。後に述べるであらう。――其等の南方種は、二度の秋の刈り上げをした。自然、種おろし・栽ゑつけには、暖いと暑いとの二度の春を持つてゐた。十一月の新甞祭がありながら、六月の神今食《ジンコンジキ》の行はれた理由は、まだ先達にも、假説たり得るものすらない。私は、此をかう考へる。
陰陽道に習合せられて殘つて、其が江戸期まで行はれたものと見られる「二度正月」の心理であらう。同時に、徳政や古代の商變《アキカヘ》しなど言ふ變態な社會政策の生み出される根柢になつたものとも思はれる。大祓への如きも、單に上元・中元に先だつ季節祓へでなく、やはり一年を二年と見た傳習から出たものと見る方がよい樣だ。一年に一度刈り上げる國土に來ても、固定した信仰行事の上では、二秋《フタアキ》の舊郷土の俤を殘したものらしい。
支那及び其影響を受けた民族の將來してゐた傳承では、めぐり神[#「めぐり神」に傍線]の畏怖は、まだ具體的にはなつて居ない。が、守護神の眼の屆かぬ季節交替期、所謂ゆきあひ[#「ゆきあひ」に傍線]の頃を怖れる心持ちが、深く印象せられた。我が民族の中心種族の間にも、時の替り目に魂の漂《ウカ》れ易い事を信じて居た。其が合體して、五節供其他の形代を棄てる風が、段々成長して來た。日本に於ける陰陽道は、其道の博士たちの學問が正道を進んで居た間さへ、實行方面は歸化種の下僚の傳説的方式――必、多くの誤傳と變改とを含んだ筈の――をとり行はしめた。宮中或は豪家・官廳の在來の儀式に、方術を竝べ行ひ、又時としては佛家の呪術をさへ併せて用ゐる樣なことがあつた。其間に、呪術の目的・方法・傳説さへ混亂する樣になつた。七夕の「乞巧奠《キツカウテン》」の如き、「盂蘭盆會」の如き、「節折《ヨヲ》り」の如き、皆、鎭魂・魂祭り・祓除・川祭りの固有の儀禮に、開化した解説と、文明的な――と思はれた――方式の衣を着せたものであつた。
かうした變化法・吸收法を以て、外來の傳承に融合して行つたものである。だから、季節毎の畏怖を鎭魂又は祓除によつて、散却してゐた。勿論、上巳・端午には、支那本土でも、祓除の意味があつたのだが、我が國では、節分にも、七夕にも、盂蘭盆にも、八朔にも、玄猪にも、更に又、放生會にすらも、此側から出た痕跡が明らかに見えてゐる。
鎭花祭《ハナシヅメマツ》りには、多少外來種の色彩が出てゐるが、やはり魂ふり[#「魂ふり」に傍線]に努めた古風が、少分の外種を含んで出たのである。寧、歸化種の人々に及んだ影響が、あゝして現れたと見るべきであらう。二度の大祓へに伴ふ鎭魂や、上巳・端午の雛神や、盆・七夕の精靈に對してする「別れ惜しみ」の式などは、芻《スウ》靈や死靈の祭り以外に、生きみ魂[#「生きみ魂」に傍線]の鎭魂の意味が十分に殘つてゐるのである。
名は同化せられて行つて、上邊《ウハベ》は變化しながら、實は固有種と違つた意味に育たしめるのが、我が民族の外來文化に接觸の爲方であつた。だから、常識化し、傳説を紛らした道教の方式にたやすく結合して、傳承を伸して行つた。其で上元の外に、中元を考へ、季節の祓除・鎭魂を行ふことになつた。量り難く古い道教傳來の昔から、徐々にさうして進んで來て、祓除の根本思想を穢れの排除にあるとさへ古代に於ても考へるまでになつてゐた。吉事祓へが、凶事祓へに先だつてあつたことが考へられなかつたのは、全く道教の影響である。
神に扮し、又、神を迎へる爲の人及び家屋の齋戒や祓除をするのが元であつた。神としての聖《キヨ》さを獲むが爲の人身離脱が、祓へ・禊ぎの根本觀念であることを考へぬ人が多い。凶事祓へを原とする考へ方は、祓への起原を神にあるとした、凶事祓へが主になつた時代の古傳説に囚はれてゐるのである。吉事祓へは、畢竟たぶう[#「たぶう」に傍線]の内的表現で、外的には、縵・忌み衣などを以て、しるし[#「しるし」に傍線]とした。
季節のゆきあひ[#「ゆきあひ」に傍線]毎に祓除を行ふとゝもに、其附帶條件たるまれびと[#「まれびと」に傍線]のおとづれ[#「おとづれ」に傍線]を忘れなかつた。地方によつて遲速はあつても、まれびと[#「まれびと」に傍線]の信仰は、ともかくも段々變化して來ずにはゐない。元々まれびと[#「まれびと」に傍線]を祖先とする考へすら夙く失うて、ある地方では至上の神と考へ、又ある地方では、恐るべく、併し自分の村に對する好意は豫期することの出來る魔物とし、或は無力・孤獨な小人を神と思ひ、或は群行する神の一隊を聯想したりして來た。而も青蟲の類をすら、此神の姿とするものもあつた。行疫神をも、此神の中にこめて見る觀察も行はれて來た。
おとづれ[#「おとづれ」に傍線]が頻繁になつて、村の公事なる祭りでなく、一家の私の祝福にも、常世神が臨む樣になる。殊に村君の大家《オホヤケ》の力が増せば、神たちは其祝福の爲に、度々神の扮裝をせねばならぬ。其以外の小家でも、神の來臨を請ふこと頻りになつて來る。
酒は旅行者の魂に對する占ひの爲に釀されたものだが、享樂の爲に用ゐる時にも、ほかひ[#「ほかひ」に傍線]はせねばならぬ。壽詞は昔ながらで、新釀《ニヒツク》りの出來のよい樣に唱へると言つた形をとつて來るわけである。家々の婚禮にも神が臨み、新室開きにも神が迎へられる。釀酒にも、新室にも、神の意識は自他倶に失はれて了うた。とようかのめ[#「とようかのめ」に傍線]にことゞふ神は、夙く大刀うち振ふ壯夫と考へられ、家あるじ[#「家あるじ」に傍線]の齡をほぐ神は、唯の人間としての長上の尊者としてあへしらはれた。
此通りまれびと[#「まれびと」に傍線]は、必しも昔の樣に、常世の國から來ると考へられた者ばかりではなくなつた。幾種類ものまれびと[#「まれびと」に傍線]があり、又、神話化し、過去のことになつたのもあると共に、知らず識らずの間に、やつした神の姿を忘れて、唯の人としてのまれびと[#「まれびと」に傍線]が出來た。又、衣帶《エタイ》の知れぬ遠處新來の神をも、まれびと[#「まれびと」に傍線]に對して懷いた考へ方に容れる事になつた。一つは、新神の新にして、萎えくたびれない威力を信じ畏れた爲もある。が併し、如何なる邪神にでも、鄭重なあるじぶり[#「あるじぶり」に傍線]と、纒綿たるなごり惜しみの情を表出して、他處へ送る風の、今も行はれて居つて、其が盂蘭盆の聖靈送りなどに似て居るのを見れば、自ら納得の行くことがあらう。其は遠來神・新渡神に對するのと、精靈に對するのとは、形の上に區別がないことである。即、常世の國から毎年新しく、稀におとづれ來る神にした通りの禮式を、色々な意味のまれびと[#「まれびと」に傍線]に及したのである。決して單純に、邪神に媚び事へて、我が村に事なからしめようとするのだといふ側からばかりは、考へることが出來ないのである。
一四 とこよ
雁をとこよの鳥[#「とこよの鳥」に傍線]としたことは、海のあなたから時を定めて渡り來る鳥だからである。同じ意味に於て、更に神聖な牲料《ニヘシロ》なる鵠《クヾヒ》は、白鳥と呼ばれて常世の鳥と考へられたのは固より、靈を持ち搬び、時としては、人間身をも表す事の出來るものとせられた。鵠《クヾヒ》が段々數少くなると共に、白い翼の鳥は、鶴でも、鷺でも、白鳥と稱へられ、鵠《クヾヒ》の持つた靈力を附與して考へられた。
我が國の古俗ばかりから推しても世界的の白鳥處女傳説は、極めて明快に説明が出來るのは、此國に民間傳承の學問が、大いに興る素地を持つてゐるのだと言へようと思ふ。富みと齡の國なる常世は、元、海岸の村々で、てんでに考へて居た祖靈の駐屯所であつた。だから、定期にまれびと[#「まれびと」に傍線]として來り臨む外に、常世浪に搖られつゝ、思ひがけない時に、其島から流れて、此岸に寄る小人神があるとせられたこと、のるまん人[#「のるまん人」に傍線]等の考へと一つ事である。更に少彦名の漂着を言ひ、大國主の許に海の
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