彼方から波を照して奇魂・幸魂がより來つたと言ふのは、常世を魂の國と見たからである。
常世の國は、飛鳥の都の末頃には既に醇化して、多くの人々に考へられてゐた樣であるが、此には原住歸化漢人種の支那傳來の、海中仙山の幻影が重つて來て居る。藤原の都では、常世に蓬莱の要素を十分に持つて來て居る事が知れる。けれども、言語は時代の前後に拘らず、用語例の新舊を檢査して見る必要がある。新しい時代にも、土地と人格とによつては、古い意義を存してゐるのだ。
常夜往《トコヨユク》と言ふ古事記の用例は、まづ一番古い姿であらう。「とこよ[#「とこよ」に傍線]にも我が往かなくに」とある大伴[#(ノ)]坂上《サカノヘ》[#(ノ)]郎女の用法は、本居宣長によれば、黄泉の意となる。此は少し確かさが足らない。が、とこよ[#「とこよ」に傍線]を樂土とは見て居ないやうで、舊用語例に近よつて居る。常夜・常暗《トコヤミ》など言ふとこ[#「とこ」に傍線]は、永久よりも、恆常・不變・絶對などが、元に近い内容である。ゆく[#「ゆく」に傍線]は續行・不斷絶などの用語例を持つ語だから、絶對の闇のあり樣で日を經ると言ふことであらう。而も、記・紀には、其すぐ後に海の彼方の異郷の生物を意味するとこよの長鳴鳥[#「とこよの長鳴鳥」に傍線]を出して居るから、一つゞきの物語にすら、用語例の變化した二つの時代を含んでゐることが見られる。古事記には尚、常世の二つの違うた用例を見せて居る。海龍の國を常世として、樂土を考へてゐること、浦島子の行つた常世と違はない。此は新しい意味である。たぢまもり[#「たぢまもり」に傍線]の橘を求めた國は、實在の色彩濃いながら、やはり常世の國となつて居る。其他異色のあるのは、常陸風土記の常陸自身を常世國だと稱した事である。此は理想國の名を、如何にも地方の學者らしく、字面からこじつけ引きよせた一家言であつたのだらう。
ほをりの命[#「ほをりの命」に傍線]と浦島子との場合の常世は、目無筐《マナシカタマ》に入ると言ひ、魚族の居る國と傳へ(記・紀)、海中らしく見えるが、他の場合の常世の意は、すべて海の彼岸にあるらしく傳へてゐる。つまりは、古代人の空想した國、或は島であつたのだ。たぢまもり[#「たぢまもり」に傍線]の場合は、其出自が漢種であり、現實性が多い書き方の爲に、如何にも橘を齎した國が南方支那の樣に見える。けれども
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