尊者としてあへしらはれた。
此通りまれびと[#「まれびと」に傍線]は、必しも昔の樣に、常世の國から來ると考へられた者ばかりではなくなつた。幾種類ものまれびと[#「まれびと」に傍線]があり、又、神話化し、過去のことになつたのもあると共に、知らず識らずの間に、やつした神の姿を忘れて、唯の人としてのまれびと[#「まれびと」に傍線]が出來た。又、衣帶《エタイ》の知れぬ遠處新來の神をも、まれびと[#「まれびと」に傍線]に對して懷いた考へ方に容れる事になつた。一つは、新神の新にして、萎えくたびれない威力を信じ畏れた爲もある。が併し、如何なる邪神にでも、鄭重なあるじぶり[#「あるじぶり」に傍線]と、纒綿たるなごり惜しみの情を表出して、他處へ送る風の、今も行はれて居つて、其が盂蘭盆の聖靈送りなどに似て居るのを見れば、自ら納得の行くことがあらう。其は遠來神・新渡神に對するのと、精靈に對するのとは、形の上に區別がないことである。即、常世の國から毎年新しく、稀におとづれ來る神にした通りの禮式を、色々な意味のまれびと[#「まれびと」に傍線]に及したのである。決して單純に、邪神に媚び事へて、我が村に事なからしめようとするのだといふ側からばかりは、考へることが出來ないのである。
一四 とこよ
雁をとこよの鳥[#「とこよの鳥」に傍線]としたことは、海のあなたから時を定めて渡り來る鳥だからである。同じ意味に於て、更に神聖な牲料《ニヘシロ》なる鵠《クヾヒ》は、白鳥と呼ばれて常世の鳥と考へられたのは固より、靈を持ち搬び、時としては、人間身をも表す事の出來るものとせられた。鵠《クヾヒ》が段々數少くなると共に、白い翼の鳥は、鶴でも、鷺でも、白鳥と稱へられ、鵠《クヾヒ》の持つた靈力を附與して考へられた。
我が國の古俗ばかりから推しても世界的の白鳥處女傳説は、極めて明快に説明が出來るのは、此國に民間傳承の學問が、大いに興る素地を持つてゐるのだと言へようと思ふ。富みと齡の國なる常世は、元、海岸の村々で、てんでに考へて居た祖靈の駐屯所であつた。だから、定期にまれびと[#「まれびと」に傍線]として來り臨む外に、常世浪に搖られつゝ、思ひがけない時に、其島から流れて、此岸に寄る小人神があるとせられたこと、のるまん人[#「のるまん人」に傍線]等の考へと一つ事である。更に少彦名の漂着を言ひ、大國主の許に海の
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