事の若い衆として、きぢ[#「きぢ」に傍線]の儘に考へられ、とゞのつまりは、職業者をさへ出すことになつたのである。
おとづれ[#「おとづれ」に傍線]の度數の殖えた理由は、常世神の内容の變化して來た爲なのは勿論だが、今一つ大きな原因は、村の行事を、家の上にも移すことになつたからである。村全體の爲に來り臨み、村人すべての前に示現したまれびと[#「まれびと」に傍線]が、個々の村舍《ムラヤ》をおとづれる樣になつた。初めは、やはり村に大家《オホヤケ》が出來た爲である。村人の心を信仰で整理した人が、大家《オホヤケ》を作つた。此大家即村君の家に、神の來臨ある事が家屋及び家あるじの身の堅固の爲の言《コト》ほぎ[#「ほぎ」に傍線]の風を、段々其以下の家々にもおし擴めて行つた。併し、凡下の家に到るまで果してさうであつたかどうかは疑問である。けれども此點に問題を据ゑて、大體、時代が降る程、一般の風習となつて行つたと見てよからう。だから、或廣場、後には神地に村の人々を集めて、神意を宣つた痕跡と見るべき歌垣風の春祭り――秋にも此形を採る樣になつた地方がある――の方が、女の留守をする家々に、一人々々神及び神の眷屬の臨んで、ひと夜づま[#「ひと夜づま」に傍線]の形で婚ふ秋の祭りよりも、原始的だと言ふ事が出來る。
其に尠くとも今二つ、有力な原動力が考へられる。其は、祖先の一部分が曾て住みつき、或は經由して來た土地での農業暦である。それから、新古の來住漢人が固有して居た季節觀である。我々の祖先の有力な一部分は、南島から幾度となく渡つて來た事は疑ひがない。此種族が、わが中心民族の祖先と謂はないまでも――此に對しては、私は肯定説を持つてゐる。後に述べるであらう。――其等の南方種は、二度の秋の刈り上げをした。自然、種おろし・栽ゑつけには、暖いと暑いとの二度の春を持つてゐた。十一月の新甞祭がありながら、六月の神今食《ジンコンジキ》の行はれた理由は、まだ先達にも、假説たり得るものすらない。私は、此をかう考へる。
陰陽道に習合せられて殘つて、其が江戸期まで行はれたものと見られる「二度正月」の心理であらう。同時に、徳政や古代の商變《アキカヘ》しなど言ふ變態な社會政策の生み出される根柢になつたものとも思はれる。大祓への如きも、單に上元・中元に先だつ季節祓へでなく、やはり一年を二年と見た傳習から出たものと見る方がよい樣
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