の村々で見ても、今こそ一村一族と言ふものはなくなつて、大抵、數個の門中からなつて居るが、古い形は大體一つの門中を以て、村を組織して居たのであるから、一つのあんがまあ[#「あんがまあ」に傍線]が、村中のどこの家にも迎へられることの出來る訣はわかる。さうした祖《オヤ》の精靈の、時あつて子孫の村屋に臨み、新しい祝福の辭を述べると共に、教訓・批難などをして行つた古代の民間傳承が、段々神事の内容を持つて來る事も考へにくゝはない。
内地の祭禮の夜にあくたい[#「あくたい」に傍線]の伴ふ事があるのは、悠遠な祖先の邑落生活時代に村の死者の靈の來臨する日の古俗を止めて居るのである。勿論、我が國農村に近世まで盛んに行はれた村どうしの競技に、相手の村を屈服させることが、おのが村の農作を豐かにするとしたかけあひ[#「かけあひ」に傍線]・かけ踊り[#「かけ踊り」に傍線]の側の形式をとり込んでゐるのであらうが、主としての流れは、祖靈のそしり[#「そしり」に傍線]にある事と思ふ。一村が一族であるとしたら、子孫の正系が村君である。祖靈が、村の神人の口に託して、村君のやり口を難ずる事があつたとしたら、此を咎める事も出來ないはずである。かう言ふ風に、神人の爲事が、村の幸福と政治との矛盾した點に觸れることが多くなつて來るに連れて、姿は愈、隱され、聲は益、作られて、其誰とも知れない樣に努める樣になつて來るのは、當然である。「千葉笑ひ」の如きは、神人の意識的のそしりが含まれて來る訣である。ざつとな[#「ざつとな」に傍線]は家々を訪問する點に於てあんがまあ[#「あんがまあ」に傍線]に近い者である。
祖靈が夙く神と考へられ、神人の假裝によつて、其意思も表現せられる樣になつたのが、日本の神道の上の事實である。而も尚、神の屬性に含まれない部分を殘して居るのは、「みたまをがみ」の民間傳承である。古代日本人の靈魂に對する考へは、人の生死に拘らず生存して居るものであつて、而も同時に游離し易い状態にあるものとしてゐた。特に生きて居る人の物と言ふ事を示す爲に、いきみたま[#「いきみたま」に傍線]と修飾語を置く。靈祭りは、單に死者にあるばかりではなかつた。生者のいきみたま[#「いきみたま」に傍線]に對して行うたのであつた。さうして其時期も大體同時であつたらしい。
僞經だと言ふ「盂蘭盆經」には、盂蘭盆を年中六囘と定めて居る。「魂
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