である。さうした邑々の信仰が、一つの邑の宗教系統に這入つて來る樣になる。倭朝廷の下なる邑として、單なる、豪族となつても、邑々時代の生活は易へなかつた。殊に經濟組織に到つては、豪族として存在の意義が其處に繋つて居るのだから、革まることはなくて續いて居た。難波朝廷(孝徳帝)から半永久的に行はれた政策の中心は、此生活を易へさせる事であつた。此がほゞ根本的に改つて來たのは、平安朝に入つて後の話である。
邑と豪族とを放し、神と豪族との間を裂くと言ふ理想が實現せられて、豪族生活が官吏生活に變つて了うても、元の邑の自給自足の生活は、容易に替らなかつたのである。
邑々に於ける國造は、自分の家の生活を保つ爲に、いろんな職業團體――かきべの民――を設けて、家職制度を定めて居た。奈良朝になつてからではあるが、才能の模樣では、所屬以外の部曲に移した例はある。朝妻《アサヅマ》[#(ノ)]手人《テヒト》である工匠が、語部に替る事を認可せられた(續紀養老三年)のは、社會組織が變つた爲ばかりでなく、部曲制度が、わりに固定して居なかつた事を見せて居るのであらう。
朝妻[#(ノ)]手人から語部に替ると言ふのは、聲樂の才を
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