詞形――文學意識は少いが――と考へられて來ると、形の上にこそ本句と末句との間に、必、休息點は置いても、思想の上では一貫したものになつて來る。本末のある句を繰り返して、調を整へるのも、他の詩形の影響である。
私は敍事詩の發生と時を同じくして片哥が出來たと考へ、神の自敍傳としての原始敍事詩と、神の意思表現手段としての片哥と對立させて、推論を進めて來たが、其にしても、此音脚の上に整理の積んだ形は、可なり敍事詩時代の進んだ後、其洗煉せられた樣式をとり入れたものとしか思はれない。

        三

種族の歴史は、歴史として傳へられて來たのではない。或過程を經た後、「神言」によつて知つたのである。其すら、神の自ら、如何に信仰せられて然るべきかを説く爲の、自敍傳の分化したものであつた。祭祀を主とせぬ語部が出來ても、神を離れては意味がなかつた。單に、史籍の現れるまでの間を、口語に繋ぎ止めた古老の遺傳ではなかつたのである。信仰を外にしては、此大儀で亦空虚にも見える爲事の爲の、部曲の存在をば、邑落生活の上の必須條件とする樣になつた筋道がわからない。其に又、人間の考へ通り自由に、其詞曲を作る事が許されて居たのなら、子代部《コシロベ》・名代部《ナシロベ》の民を立てる樣な方法は採らなかつたであらう。
國と稱する邑々が、國名を廢して郡で呼ばれる樣になつても、邑の人々は、尚、國の音覺に執着した。私に國を名のり、又は郡を忌避して、縣《カタ》を稱して居た。其領主なる國造等は、郡領と呼び易へる事になつても、なほ名義だけは、國造を稱へて居たのが、後世までもある。けれども、さうした國造家は、神主として殘つたものに限つて居る。邑々の豪族は、神に事へる事によつて、民に臨む力を持つて居た。其國造が、段々神に事へる事から遠ざかつても、尚、神主《カムヌシ》として、邑の大事の神事に洩れる事が出來なかつた。さういふ邑々を一統した邑が、我々の倭朝廷であつたのである。
一つの邑の生活が、次第に成長して、一國となり、更に、數國數十个國の上に、國家を形づくる事になつた。こんなにまで、所謂國造生活が擴つても、やはり他の邑の國造とおなじく、神事を棄てゝ了ふ訣にはいかなかつた。今もさうである樣にある時期には、神主としての生活が、繰り返されねばならなかつた。古い邑々の習慣が、祖先禮拜の觀念に結びついて、現に、宮中には殘つて居るの
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