思はれる一つの樣式として、語部《カタリベ》と言ふ職業團體――かきべ――が、段々成立して行つた。
神|憑《ガヽ》りの時々語られた神語の、種族生活に印象の深いものを語り傳へて居る中に、其傳誦の職が、巫覡の間に分化して來た。さうして世襲職として、奉仕には漸く遠ざかり、詞句の諳誦と曲節の熟練との上に、其が深くなつて行つたものと思はれる。
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語部の話は、私の研究の筋を辿つて、雜誌「思想」(大正十三年一月)に公にせられた横山重氏の論文がある。私の持つて居る考へ方は、緻密に傳へられて居る。それを推擧して、私は唯概念を綴る。
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        二

神語即託宣は、人語を以てせられる場合もあるが、任意の神託を待たずに、答へを要望する場合に、神の意思は多く、譬喩或は象徴風に現はれる。そこで「神語」を聞き知る審神者――さには――と言ふ者が出來るのである。
中には人間の問ひに對して、一言を以て答へる、一言主《ヒトコトヌシ》[#(ノ)]神の樣に方法を採るのもあつた。
神の意思表現に用ゐられた簡單な「神語」の樣式が、神に對しての設問にも、利用せられる樣になつたかと思はれる。
私は「片哥」と言ふ形が、此から進んだものと考へる。旋頭歌の不具なる物故と思はれて居る名の片哥は、古くは必、問答態を採る。「神武天皇・大久米命の問答」・「酒折[#(ノ)]宮の唱和」などを見ると、旋頭歌發生の意義は知れる。片哥で問ひ、片哥で答へる神事の言語が、一對で完成するものとの意識を深めて、一つ樣式となつたのである。併し、問答態以前に、神意を宣るだけの片哥の時代があつた事は、考へねばならぬ。
今日殘つて居る片哥・旋頭歌は、形の頗整頓したものである。我々の想像以前の時代の、此端的な「神言」は、片哥・旋頭歌には近いだらうが、もつと整はぬものであつたらう。なぜなら、此二つの形は、敍事詩がある發達を遂げた後に、固定した音脚をとりこんだものらしく思はれるからである。つまりは、自由な短い樣式が、段々他の方面で發達して來たものに影響せられて來たのである。時代の音脚法によつて、整理せられたと言うてもよからう。片哥を以て、日本歌謠の原始的な樣式と考へ易いが、かうした反省が大事である。
けれども、我々の立場からは、複雜の單純化せられ、雜多が統一せられて行く事實を忘れてはならない。旋頭歌が、一つの
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