である。さうした邑々の信仰が、一つの邑の宗教系統に這入つて來る樣になる。倭朝廷の下なる邑として、單なる、豪族となつても、邑々時代の生活は易へなかつた。殊に經濟組織に到つては、豪族として存在の意義が其處に繋つて居るのだから、革まることはなくて續いて居た。難波朝廷(孝徳帝)から半永久的に行はれた政策の中心は、此生活を易へさせる事であつた。此がほゞ根本的に改つて來たのは、平安朝に入つて後の話である。
邑と豪族とを放し、神と豪族との間を裂くと言ふ理想が實現せられて、豪族生活が官吏生活に變つて了うても、元の邑の自給自足の生活は、容易に替らなかつたのである。
邑々に於ける國造は、自分の家の生活を保つ爲に、いろんな職業團體――かきべの民――を設けて、家職制度を定めて居た。奈良朝になつてからではあるが、才能の模樣では、所屬以外の部曲に移した例はある。朝妻《アサヅマ》[#(ノ)]手人《テヒト》である工匠が、語部に替る事を認可せられた(續紀養老三年)のは、社會組織が變つた爲ばかりでなく、部曲制度が、わりに固定して居なかつた事を見せて居るのであらう。
朝妻[#(ノ)]手人から語部に替ると言ふのは、聲樂の才を採用したものであらう。其外に尚、血統の上の關係があるかも知れぬ。唯、諳記力の優れて居たのだらうと言ふ想像は、語部の敍事詩をとり扱うた方法に、理解がないからである。稗田[#(ノ)]阿禮が古事記の基礎になつて居る敍事詩を諳誦したと言ふのも、驚くに當らぬことである。
語部の諳誦した文章は、散文ではなかつたのである。曲節を伴うた律文であつたのだから、幾篇かの敍事詩も容易に諳誦する事が出來たはずである。邑々の語部が、段々保護者たる豪族と離れねばならぬ時勢に向うて來る。豪族が土地から別れる樣になるまでは、邑々の語部は、尚、存在の意味があつたのである。神と家と土地との關係が、語部の敍事詩を語る目的であつた。家に離れ、神に離れた語部の中には、土地にも別れねばならぬ時に出くはした者もある樣である。自ら新樣式の生活法を擇んだ一部の者の外は、平安朝に入つても、尚、舊時代の生活を續けて居た事と思はれる。
日本歌謠のおほざつぱな分類の目安は、うたひ物[#「うたひ物」に傍線]・語り物[#「語り物」に傍線]の二つの型である。敍事風で、旋律の單調な場合が「かたる」であり、抒情式に、變化に富んだ旋律を持つた時が「うたふ
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