型の祝詞を拵へるにしても、昔の型のまゝに模倣しなければならぬ。今の神主など見ますと、皆昔の型通り書いてゐる。一寸字を入れ換へたらいゝのでせう。ところが、昔の祝詞を作る精神はまう少し違ふと思ふ。その祝詞のまゝで、どんな場合でも間に合つた。坊さんがお経を知らないと、色々なもので間に合せますね。お経と祝詞とは、どんなものでも間に合つたのでせう。それが数個に分れて行き、更に世の中が進んで来ると、数十個、数百個と言ふ風に分れて来る。併し、その時には、そこが一番必要だ大事だと言ふやうな古い祝詞の中の定つた大事な文句が、必ず、這入つてゐる。これを落してはゐないと言ふ事が、一番忘れられぬ点なんです。
宮廷の書物を見ても、ちやんと定つてをります。天子様の大事な、大行事の時、中行事の時、小行事の時と、それ/″\入れる文句が、定つてをります。又さう言ふ時には、天子様はどう御自分の御資格を御名告りになるか、資格の名告り方が違ふ。小事の時には、天子様は御自分の事をかう仰る、中事の時にはかう、大事の時にはかう、となつてをります。日本の国民に向つて仰る時には、「大倭根子天皇《オホヤマトネコスメラミコト》」とお称へになるのです。これはお名前の様にも思へますが、古事記や日本紀を御覧になると、大和の宮廷の時分、天子様のお名前の上に、日本根子《ヤマトネコ》何々の天皇と言ふ風に出てゐる事に気がつきませう。さう言ふ定つたものがあつて、それを嵌めれば、昔の祝詞と同じ効力を持つて来る。だから、一つの新しい言葉に、昔の祝詞と同じやうな事柄を持たせる為には、古くからある、あゝ言ふ言葉を嵌めて行くと言ふ事が必要だつたのです。だから、換へる部分が少くて、古いまゝ入れて置く処が多かつたのです。それが時代が下る程、新しい部分が殖えて来て、形式的に入れる部分が少くなつてゐるのです。何故そんな事が言へるかと言ふと、極く、新しい事でも訣つてをります。大祓の祝詞と言ふものですが、これも省略するのと大凡三通り程あります。つまり、大祓の祝詞をば、長いまゝで言ふのを、地方で極く、短く節約して言ふので、三通り程あります。さう言ふ風に、どんなに短くしても、急所さへ失はなければいゝのです。
それから、私共若い時は、よく擬古文を作らされたものですが、今の若い人なんか、擬古文なんか作りませんが、今日聞いてをつて下さる方々は、大抵、大なり小なりお作りになつてゐるでせうが、擬古文を作ると、自分の感情は出にくいけれども、言ひ易い。これは昔の人が言つておいてくれてゐるから、その伝へてゐる形によつて、ある点は言ひ易いのです。柳田先生が、三河の菅江真澄の書いた真澄遊覧記につけてお書きになつた序文の中で、どうも左手で背中をさぐつてゐるやうな気がする、と言つてゐられるが、表現が大変不確実だから頼りない処があります。
ところが、日本の文章と言ふものは擬古文の連続なのです。昔から一遍だつて、その時代の言葉で書いてあつたと言ふ事は、我々には考へられない。山田美妙斎、長谷川二葉亭が言文一致を考へ出した。外国語がかうだからと言ふ風に考へ出したが、非常な発明だつたのでせう。その前にもあつた事はあつた。天草の宣教師に、日本語を理解さす為に拵へた平家やいそっぷ[#「いそっぷ」に傍線]などの著述を見ましたが、まあ古い外国語と日本の言葉と触れた最初、と言ふ訣ではないけれども、兎に角、西洋の自由な表現法と日本のとらはれた表現法とが触れた時に生じた、当時の新しい方法なのでせう。それから前になると、国語と漢文と妥協したやうな形が、奈良朝の時分からあつて、それがだん/\時が過ぎて、鎌倉室町あたりになると、上手になつて来る。古事記なんか御覧になりましても、漢字の表現、漢文の表現法と、日本の国語の表現法とを、どこまで調和さして行けるかと言ふ工夫なのでせう。ですから、それを全部、日本語で読んでしまふのも考へものです。さうして、自然どうしても読めない処も出て来るだらうと思ひます。本居宣長先生は、勝れた人ですから、それをどうなりかうなり読んで参りましたが、万葉集なんか、形式の上から見ますと、やはりこれは漢文の形式の上に、どれだけ国語が盛れるかと言ふ事をやつてゐるのです。それから、出来るだけ詩に見えるやうにしようと言ふ工夫と、字を出来るだけ少くして書き表す、見た目はまるで漢詩を見るやうな感じを表さうと言ふやうな事もやつてをります。平安朝で残つてゐるものは、主に女房の書いた日記、物語ですけれども、併し、一方に男の書いた日記、或は日記と同類のものが行はれてをります。そして女の文学の勢力がなくなり、女文字の勢力がなくなつた鎌倉になると、それが表面に出て行はれて、漢文、つまり、日本語と漢語とが揉み合ひをしてゐるやうな文章が行はれ、これと国文との二つが並行して行くのです。そして次第に、四角張つた形式的な表向きなものと、無教育な者や婦女子だけが読む仮名ばかりのものと、かう地位も変つて来た。室町あたりからずつと、仮名ばつかりで書いたものは、婦女童幼の読物と言ふ風になつてしまつたのです。
ところが、擬古文と言ふものは、歴史を辿りますと、只今我々が一番古い日本の文章、散文だと言つてをります祝詞にも見られます。祝詞と言ふものは、間違ひなく奈良朝の宣命と言ふものゝ模倣です。宣命の方が新しいと言ひますけれども、文章をあはせて見ないで、漠然と考へてゐるから、宣命の方が新しいと思へるので、祝詞の方が新しい。古い祝詞もあるでせうけれども、多くは平安朝になつて改作したものばかりが伝つてゐる。平安朝の宮廷で凡て、改作せられた中央政府のものが残つてゐる。ところが、宣命と言ふものは、天子が国語を以て出された詔勅で、これは平安朝になつてもあるけれども、奈良朝に出たものが続日本紀に沢山出てゐるのです。続日本紀に出てゐるものは、少くとも平安朝のものではない。ところが、祝詞は平安朝に出来た弘仁式と言ふもの、それからずつと時代が降つて、延喜時代の延喜式と言ふものになつて、始めて、今残つてゐる全部の祝詞が出来て来る。その中には古いものもあらうけれども、私は神代からあつた祝詞と言ふものはないと思ひます。なにしろ、神様と関係があるものです。だから、皆神代からあつたものが多い、と昔の人は言ひます。これは崇神天皇の時、これは天智天皇の時に出来たものである、と言ふ風に皆話をしてをりますけれども、根本が間違つてゐる。部分的には、非常に古いものも残されてゐるけれども、その部分は、入れなければ祝詞の価値がなくなるから入れてゐるので、一つの文章の中の、古い部分と新しい部分とを数へて、その新しい部分を計算すれば、大体訣るのです。兎も角、私は全体として、祝詞の方が宣命よりも、やはり新しいとしてをります。ところがこの宣命と言ふものも、昔の人は都合のいゝ事を考へまして、祝詞が宣命に似過ぎてゐるからして、実は宣命は古い祝詞の真似をしたんだらう、と言ふやうな事を昔の人は言つてをります。そんな事はないのです。つまり、祝詞と言ふものは古いものは皆亡んでしまつて、新しいもの、平安朝のものだけが残つた。一方、宣命は幸にも、それより古い頃のものが残つたと見ていゝのでせう。それから宣命の文法と言ふ事を言ふ人は、非常に正確な日本の国語学者として我々の尊敬してゐるやうな人でも、宣命に現れて来る文法と言ふ事をやかましく言はれてゐる。非常に正確な様に言はれてゐるが、その一歩前に行つたら無茶苦茶です。日本の散文で一番古い、とかう断定してゐるものゝ、実はこの宣命と言ふものも、その前の宣命の模倣なのです。その前に行けば、どんなものがあつたかと言ふと、まう想像なんですが、つまり、神様の仰つた言葉で、それを今度は宮廷で使つてゐる中に、だん/\天子様の仰ることになつた。つまり、天子様は一年の中のある時期には、神様と同じ資格におなりになるのですから、その場合、御出しになる言葉と言ふものは神様の言葉です。それ以外に御出しにたる言葉も、だん/\神の場合、人の場合と言ふので、書き分けてはゐたのでせうけれども、もとは区別はないのでせう。
大体、この祝詞、或は宣命と言ふものは、もとは書いてなかつたに違ひない。神様の言葉ですから書く訣はない。秘密で口を通じて言つてゐる間に、どん/\拡つて行つて、意味も訣らなくなつたけれども、神様の言葉だから、出来るだけ亡びないやうに保つて行きました。さう言ふ努力をしてゐる間に、次第々々に間違つて行く。訣つてをれば間違ひませんけれども、訣らないから間違つて行く。だから、幾つも訣らない言葉が出来て来る。訣らないけれども使つてゐるのでせう。祝詞は平安朝に出来たと思はれるけれども、その中で、最も古いと思はれる様なものを挙げて見ましても、訣らない言葉を拵へてゐると言ふ事は指摘出来ます。訣つて書いてゐると我々は思ひますから、一所懸命で解釈しますけれども、訣らないで書いてゐる文章と言ふものを、解釈してゐるのであつて、つまらない事の様ですけれども、それが我々の本当の仕事でせう。大体、我々の書いてゐる文章と言ふものは、訣つて書いてゐる事は少いでせう。口から出放題に書いてゐる文章が多い。ですから、口からの拍子に乗つて書いてゐるのですから、一々反省を加へてゐない。だから訣らない事の方が多い。併し、昔の文章にもそれが非常に多い。日本の文章の、散文と言ふものを考へると、そのとゞのつまりは宣命です。併し宣命より前に、それより古い前期祝詞と言ふべきものや、その前期祝詞から分化して来た処の、前期の宣命と言ふものがあるに違ひない。だから、宣命に現れてゐる言葉と言ふものには、前期の祝詞或は宣命の中の言葉が使つてある。つまり、飜訳の出来るものは皆古いものにしてゐます。ですから、さう言ふ言葉を以て、この言葉があつて、而もこれが奈良朝の言葉だから、従つてこの文章は奈良朝に出来たものだ、と言ふやうな事を言ふのは間違ひです。譬へば、平安朝以後にある処のまじ[#「まじ」に傍線]と言ふ言葉、「あるまじ」、「行くまじ」、「すまじ」と言ふまじ[#「まじ」に傍線]は、奈良朝ならばましゞ[#「ましゞ」に傍線]といふ形でせう。万葉集にもあります。宣命にもあります。宣命のは最も、極端に、ましゞき[#「ましゞき」に傍線]と活用させてあります。こんな活用は少しをかしいですけれども、かう言ふものが宣命にかなりあるのです。これは、皆奈良朝に生きてゐた言葉だと言ふ風には、断定出来ない。奈良朝で既に死んだ言葉もございますし、死んだ言葉をば使つてゐるのかも知れません。我々が「大きい」と言ふ言葉を擬古文で書けば、「大きゝもの」と書いてしまひさうです。さう言ふ誤りはあるのです。ですから、ましゞき[#「ましゞき」に傍線]と言ふのは、誤つた近代的の活用かも知れません。「大きゝ」と言ふ様な、現代の文章で誤つて活用さして拵へたものと、同じものかも知れません。さう言ふものは、必ずある様に思ひます。
大伴家持と言ふ人がをります。昔の歌が非常に好きで、昔の歌を集め、万葉集の成立には関係の深い人ですが、この人は不思議な人で、非常に近代的な気持を持つた人なのです。奈良朝の文学ばかりでなしに、支那の文学にまで触れてをりますから、非常にこまかい神経を持つた人です。だから、昔の言葉だけではいけない事があれば、昔の言葉を自分勝手に活用させてゐる。で、家持の言葉には誤用があるのです。譬へば、古い言葉の活用を間違へ、意味を間違へ或は発音を間違へて写してゐると言ふ様な事が出てゐる。そんな事を見ますと、万葉にあるから正しいと言つてゐる人の顔が見たいと思ふ位です。万葉の中でも長歌は殆どまう、擬古文です。殊に、奈良朝の万葉の長歌になりますと、殆ど総て擬古文です。山上憶良などと言ふ人は、非常に長歌を作つて、色々な社会主義みたいな理論を述べた人でありますけれども、併し、形式は擬古文です。家持が後になつて犯す様な過ちを、憶良が先に犯してゐる。憶良と言ふ人は変な人でどうしてもあの、五七、五七、と言ふ調子が出て来ないらしい。支那まで留学して来た人だし、教育が違
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